[#表紙(表紙.jpg)] 宇江佐真理 髪結い伊三次捕物余話 黒く塗れ 目 次  蓮 華 往 生  畏れ入谷の  夢 お ぼ ろ  月に霞はどでごんす  黒 く 塗 れ  慈 雨  文庫のためのあとがき [#改ページ]   蓮 華 往 生      一  北町奉行所が常盤橋御門内《ときわばしごもんうち》から現在の呉服橋《ごふくばし》御門内へ移転となったのは文化三年(一八〇六)のことだった。  移転の理由は同年三月に起きた江戸の大火で奉行所の建物がことごとく焼失してしまったからである。南町奉行所は幸い焼失は免《まぬが》れた。これ以後、江戸の人々は町奉行所と言えば、北は呉服橋御門内、南は数寄屋橋《すきやばし》御門内と覚えるようになった。  町奉行所の長《おさ》は言わずと知れた町奉行である。ただ今は永田備後守正道《ながたびんごのかみまさみち》がその任に就《つ》いている。町奉行は激務であるため、役に任ぜられると奉行所内の役宅へ引っ越してくる。職住一致で日夜、江戸千七百町の総取り締まりに当たるのである。  奉行所の表門は大門《おおもん》の左右に小門がついていた。大門は月番の時には開け放たれ、非番の時は閉じられる。しかし、右手の小門は訴えのある人々のために常時開けられていた。左手の小門は囚人専用の入口である。  町奉行は奉行所内で寝泊まりしているので、配下の与力・同心は事件の指示を仰ぐのに手間が掛からない。迅速に処理することができた。江戸の治安が守られていた一つの要因でもあろう。  備後守はその任に就いてから馬で江戸の町々を歩き、人々に親しい言葉を掛ける気さくな人柄であった。  浅草、天啓寺《てんけいじ》の一件は、備後守がそうして市中散策の折、ふと目に留めたことに端を発していた。  金龍山《きんりゆうざん》・浅草寺《せんそうじ》からほど近い寺町の一郭に日蓮宗の一派を名乗る天啓寺という小寺があった。由緒のある寺ではなかったが、境内に金箔を施した大蓮華《だいれんげ》を備えていた。もはやこの世に未練もなく、ひたすら極楽往生を願う老人達が深く帰依《きえ》しているらしい。  大蓮華は、以前は本堂の中にあったという。  天啓寺の近くに住んでいた一人の年寄りが大蓮華にいたく執心し、黄金の蓮華の台座に座って往生するならばこの世に望みなしと、布施を弾んで当時の住職に毎日せがんでいた。  住職は年寄りの再三の申し出に、それも仏の結縁《けちえん》(仏道修行の道に入り、成仏の因縁を結ぶこと)でもあろうかと考え、老人の望み通り、台座に座らせてやった。  ところが年寄りは一刻《いつとき》(約二時間)ほどして見事にその場で息絶え、往生を果たしてしまう。このでき事はたちまち評判となった。狭い本堂には人が溢れ、収拾がつかなくなった寺は大蓮華を境内に移した。しかし、大蓮華はもともと外で祈願するように造られたものではなかったので、雨風に晒《さら》されている内に金箔は剥《は》げ、見るも無残な姿となった。そこで寺は信者に布施を請《こ》い、新たに大蓮華を建造した。  大蓮華はさらに巨大なものとなった。あらかじめ台座に人が座れるようにしたので、裏には梯子段《はしごだん》も取り付けた。さらに、人が座ると、それまで開いていた蓮華が閉じ、身体がすっぽり包まれるような趣向にした。それは傍《はた》からは奥山の|からくり《ヽヽヽヽ》芝居のように滑稽《こつけい》にも思えたが、信心する人々は頓着《とんちやく》することもなかった。天啓寺の住職は新しい大蓮華が建造された頃に往生しているので、大蓮華の評判はますます高まるばかりであった。  ただ、最近になって天啓寺の思わしくない噂が人々の口に上るようにもなった。確かに年寄り達は往生を願って大蓮華の台座に座るのであるが、昨日まで何一つ身体の不調を訴えていなかった者が呆気《あつけ》なくその場で息絶えるのが解せない。天啓寺の大蓮華のことは奉行所の役人達の間でも話題になっていたが、何しろ、寺社の取り締まりは町奉行所の管轄ではないので探索はされないまま、放って置かれる形となっていた。寺社奉行所はこの時、まだ天啓寺に対して動きを見せてはいなかった。老人の死を確認した医者も特に不審を感じている様子はなかった。  永田備後守が隠密廻《おんみつまわ》りの同心、緑川平八郎《みどりかわへいはちろう》にそれとなく天啓寺の様子を探ることを命じたのは、江戸に大きな事件も起きておらず、奉行所内が比較的平穏だったからだろう。  そうでなければお役目違いのことを、わざわざ命じたりはしない。緑川が即座に行動を起こしたのも、備後守の命令というより、天啓寺が妻女の|てや《ヽヽ》が深く帰依していた寺であったからだ。緑川は、てやが毎日のように天啓寺に通うのを苦々しく思っていた。不審な事実を突き留め、寺通いをやめさせることができるならばと考えていたようだ。  天啓寺とてやの関係を、緑川の朋輩《ほうばい》である定廻《じようまわ》り同心の不破友之進《ふわとものしん》は、しばらく知らずにいた。      二  日本橋|佐内町《さないちよう》の伊三次の家に深川芸者の喜久壽《きくじゆ》が訪ねてきたのは師走も半ばを迎えようとする頃だった。前日に降った雪が解け、通りはぬかるんでいた。そんな日に喜久壽はわざわざ深川から引っ越しの祝いを届けにやって来たのだ。  伊三次は廻《まわ》りの仕事に出て留守だった。お文《ぶん》は小僧の九兵衛《くへえ》を買い物に出し、喜久壽を茶の間へ招《しよう》じ入れた。 「まあまあ、姐《ねえ》さん。わざわざお越し下さって恐縮でございます」  お文は火燵《こたつ》に喜久壽を促して茶の用意を始めた。 「もう少し早く来ようとは思っていたんですけど、あたしも何かと用事がありましたもので遅くなって申し訳ありません。でも、今日という日を逃すと、どうなるか知れたものではないので、|えいっ《ヽヽヽ》と決心して出て来たのですよ」  喜久壽は丸い眼を大きくして大袈裟な言い方をした。お文は「えいっと決心して?」と喜久壽の言葉を鸚鵡《おうむ》返しにして笑った。それから喜久壽の手を握り、懐かしそうに揺すった。久しぶりに深川の人間と会ったので、お文は嬉しくてたまらない。 「お倖せそう……」  喜久壽は艶冶《えんや》な微笑を浮かべてしみじみと言った。 「ええ、とっても」  お文も笑顔で応える。 「いいお家ですこと。これなら伊三次さんが床《とこ》を構えても不足はないというものですよ」  喜久壽はお文の手をさり気なく放すと、家の中の様子を眺めて言った。 「わっちもそのつもりで無理をしてしまいましたよ。でも、うちの人は銭儲けが下手だから、わっちはまだまだお座敷に出て稼がなければならないんですよ」 「いいじゃござんせんか。芸者はお座敷が掛かる内が華《はな》ですよ」  喜久壽はそう言って傍《かたわ》らの風呂敷を解いた。 「何か気の利《き》いたものをと考えたのですけど、それより何よりお足《あし》が一番と思いましたので、少ないですけどお納め下さいましな」  喜久壽は祝儀袋を差し出した。 「そんな姐さん、とんでもないですよ。こんな仕舞屋《しもたや》に引っ越したぐらいで……」  お文は慌てて喜久壽の手を制した。 「いいえ、これは緑川の旦那からのお志ですよ。旦那はご自分で渡すのが気恥ずかしいとおっしゃったもので」 「まあ……」  お文は緑川平八郎の痩せた顔を脳裏に浮かべた。伊三次はお務め向きで緑川の手先をすることもある。緑川は、普段は愛想もない男だが、そっと伊三次のことを気にしていたようだ。 「それから、こちらはあたしから。お正月には紋付がいるだろうと思いましてね」  裾模様のある黒紋付に献上の博多帯が添えられていた。芸者は正月のお座敷には紋付の正装をする仕来たりである。髪に稲穂《いなほ》の簪《かんざし》を挿《さ》してめでたさを表すのである。 「でも、姐さんもお座敷で要るでしょうに」 「あたしは別なのがありますからご心配なく。少し派手になったので、前々からお文さんに差し上げようと心積もりしていたんですよ」 「いいんですか? 助かりますよ。何しろ借り着でお座敷に出ているざまですから……」  紋付を拡げて、お文はその紋が梅鉢《うめばち》であるのに気づいた。梅鉢は緑川の家の紋だった。 「姐さん、これは大事な着物じゃござんせんか」  そう言うと、喜久壽は小さくかぶりを振った。 「酔狂《すいきよう》に旦那の紋をつけていい気になっておりましたけどね、色々と言ってくる人もいますし、旦那の奥様にも済まないことだと思いまして、お座敷に着て行くのはよしにしたんですよ」  喜久壽の父親は緑川の家に使われていた下男だった。喜久壽と緑川は幼い頃から互いに惹《ひ》かれ合っていたのだ。しかし、同心といえども武家であることに変わりはない。武家の跡継ぎが下男の娘を嫁にすることには差し障りがあった。分別のついた喜久壽は自分から芸妓《げいこ》屋へ奉公に上がり、芸者の道へ進んだのである。  喜久壽と緑川が再会したのは緑川が妻を迎えてしばらくしてからである。喜久壽も本所の|やっちゃ場《ヽヽヽヽば》(青物市場)の男の世話になっていた。もはや添う、添われるの話はなく、ただ二人はひっそりと酒を酌《く》み交わしたり、音曲を奏《かな》でることだけを楽しみにしていた。  それも一つの倖せの形であろうと思うが、お文は喜久壽の気持ちを思うと切なかった。女なら好きな男の妻と呼ばれたいはずである。 「旦那の奥様は姐さんのこと、ご存じなのですか」  お文は気になることを訊《き》いた。 「ご存じだと思いますよ。最初はご夫婦仲睦まじかったそうです。でも、この頃の奥様はろくにお屋敷にも居つかず、毎日お寺参りをなさっておられるとのこと。お寺のお坊さんに信心が足りないから亭主が他のおなごに懸想《けそう》するのだと言われたら、なおさら熱心にもなりましょうね。あたし、本当は奥様に申し上げたいのですよ。旦那はお見廻りの途中でお立ち寄りになるだけで、奥様がご心配されるようなことはありませんって……」 「でも、根が真面目な方でしたら姐さんの言葉をまともに受け取るかどうか」 「旦那がどれほど説得されても了簡《りようけん》なさらないのだそうです。あたし、旦那にはもう、深川にはいらっしゃらないでと何度も申し上げたのですよ。でも、旦那も承知しなくて……奥様との仲はうまく行かなくなるばかり。旦那は家督を坊ちゃんに譲って隠居したあかつきにはお屋敷を出るとまでおっしゃるんですよ」  喜久壽の困惑がお文には手に取るようにわかった。かといって、喜久壽も簡単には緑川を諦められないのだろう。 「伊三次さん、何かおっしゃっていなかったでしょうか」  喜久壽は上目遣いでお文に訊いた。 「緑川の旦那のことですか」 「いいえ、奥様が通われているお寺のことで。旦那は今、伊三次さんと、そのお寺を調べているそうですから」 「さあ。裏の仕事のことは、わっちはよく知らないもので」 「昨日、伊三次さんが旦那と一緒にうちへいらしたんですよ。浅草の帰りだとおっしゃっていましたから、てっきりそのことだと思っておりましたけど」 「あいすみません。わっちは何も」  お文は茶の入った湯呑を差し出して申し訳ない顔で言った。 「奥様が通われているお寺は、噂の蓮華|寺《でら》なんですよ」  天啓寺というより、最近は蓮華寺と呼ばれるのがもっぱらだった。お文もその噂をお座敷で客から聞いていた。客は自分も年寄りになったら天啓寺に行って蓮華の台座で往生するのだと、冗談とも本気ともつかない口調で言っていた。台座に座り、僧侶の読経《どきよう》の声を聞きながら往生するのは見事な最期《さいご》に違いないが、お文はまだまだ死ぬことなど考えられない。  腹に宿った子を産み、その子をどうやって育てるかが当面の問題であった。 「今年はもう十人以上のお年寄りが台座で往生されたそうですよ。幾らお年寄りといっても、そんなにうまく行くものでしょうか」  喜久壽は解せない表情である。お文もようやく不審なものを感じ始めていた。  台座に上がる年寄りは、あらかじめ親戚縁者を寺に呼び寄せるという。そこで今生《こんじよう》の別れを告げるのだ。皆、涙をこぼして、お世話になりましたとか、ご冥福をお祈りしますとか口々に言うそうだ。それが済むと年寄りは晴れ晴れとした顔で台座の上で手を振るという。  蓮華が閉じると天啓寺の僧侶達は一斉に読経を始める。四十人ほどの僧侶の声は地鳴りのように辺りに響き渡り、見物する信者達も熱に浮かされたように一心に掌を合わせるのだ。  読経はおよそ一刻ほど続けられる。ようやく読経が終わって蓮華が開かれると、中の年寄りは前のめりに倒れている。中間《ちゆうげん》が四人掛かりで年寄りを地面に下ろすと、境内に待機していた医者が脈をとり、臨終を告げるというのだ。 「姐さん、これは怪しい話でござんすね」 「そうでしょう?」 「蓮華が閉じられた時、中の年寄りに一服盛るとか、何かあるんじゃござんせんか」 「石見銀山《いわみぎんざん》を使うのでしたら、お年寄りは泡を吹いているとか、苦しんだ痕《あと》があるはずですよ。でもね、今までのお年寄りにはそんな様子はなかったんですよ。だから旦那は、もっと深い仔細があるのではないかと伊三次さんと一緒に探っているんですよ」  お文の背中がざわざわと粟立った。年寄りが蓮華の台座で死ぬことより、周りにいる者が後生大事にそれを見物していることの方が恐ろしい。その中に緑川の妻がいるとなれば、お文の気持ちは、なおさら穏やかではなかった。 「あたし、旦那と奥様に夫婦別れしてほしくないのですよ。なかよく暮らしていただいて、その上であたしの所にいらっしゃるなら構わないのですが……」  喜久壽は虫のいいことを喋った。それは姐さん、違う。喉まで出掛かったが、お文は言えなかった。うまく立ち回れない緑川の不器用さが恨めしかった。これが不破だったら、夫婦仲をこじらせずに、あっさりと躱《かわ》すこともできるだろうと思った。もっとも、不破には妻の|いなみ《ヽヽヽ》以外、心惹かれる女はいなかったが。  喜久壽は一刻ほどして帰った。天啓寺のことをずい分気にしているようなので、何か変化があったら知らせるとお文は約束した。  これから緑川と喜久壽はどうなるのだろうか。お文は喜久壽の後ろ姿を見つめて思った。  子を孕《はら》んだ話はとうとうできなかった。      三  臨月のいなみは何をするのにも身体が重くて、いちいち「どっこいしょ」と掛け声を入れる。不破はその度に苦笑した。腹周りは普段の倍以上も太くなり、目方も三貫目ほど増えた。もはや油断のならない状態なので、不破は格別の用事がない限り、まっすぐ帰宅するようになった。その日も早々に帰宅して晩飯を家族とともに摂《と》った。 「最近、伊三次さんは平八郎様とご一緒ですの?」  晩飯の後で、いなみは不破に茶を勧めながら訊いた。長男の龍之介《りゆうのすけ》の部屋から素読《そどく》をする声が静かに聞こえていた。 「ああ。緑川はお奉行から直々の探索を頼まれたゆえ、伊三次を貸した」 「まあ、貸すだなんて、まるで品物のように」 「奴は小者《こもの》と反《そ》りが合わぬ男だが、どういう訳か伊三次とはうまく行くのだ」 「それはあなたも同じではないですか。伊三次さんはずい分、我慢なさっていることもありますよ」 「何を言うか。おれほど鷹揚《おうよう》な男もいない」 「ご自分でおっしゃいますか? 呆れたものですね」  いなみの軽口に不破は低い声で笑った。それから、いなみのぷっくりとした腹に片頬をつけた。孕んだ妻に夫が決まってする仕種である。不破も何度そうしたか知れない。 「早く出て来い」  乱暴な口を利いた途端、不破は慌てて顔を離し、驚いた表情になった。 「どうなさいました」 「今、蹴られた」  不破の声にいなみの腹の子が足を動かしたようだ。いなみは、さもおかしそうに笑った。 「元気な子ですよ。また男の子かしら。女の子だったら相当のお転婆ですよ」 「生まれたら当分、ゆっくり寝られぬの。龍之介の時は夜泣きで大層悩まされた」  不破は昔を思い出してそんなことを言う。 「この頃はお早いお戻りでわたくしも安心ですよ。この子が生まれても当分、ご協力をお願い致します」 「しかし、事件が起きたとなればそんなことも言うておられぬ。幸い、今はさしたる事件もなくいい按配《あんばい》だ」 「平八郎様は浅草の方に御用があるらしいですね。奥様も毎日のように浅草にお越しになりますから向こうでご一緒することもあるのでしょうか」  何気なく言ったいなみに不破は怪訝《けげん》な眼を向けた。 「緑川の女房は浅草へ毎日、何をしに行くのだ」 「お寺参りですよ。とても信心深い方なのですよ。わたくしも誘われたことがありますけど、この身体なのでご遠慮申し上げたのです」 「緑川の旦那寺は浅草じゃなかったはずだが」 「平八郎様のお家は浄土宗で深川にお墓がありますけれど、奥様は日蓮宗を信仰しているのですよ。確か天啓寺とかおっしゃっておりました」 「なに!」  不破は眼を剥《む》いていなみを見た。 「どうしたのです? 天啓寺に何かございまして」 「平八郎はその天啓寺を張っているんだ」  不破は激昂《げつこう》した声を上げた。 「でも、天啓寺は熱心に信心すれば極楽往生に導いて下さるありがたいお寺ではないのですか」  いなみは、てやから教えられたことを言った。 「何が極楽往生だ。そんなにうまく人が死ねるか。あの寺は姥捨山《うばすてやま》だ」  不破は容赦もなく言って退《の》けた。それから天啓寺に纏《まつ》わる様々の不審な点を腹立たし気にいなみに語った。 「お義父《とう》様は今際《いまわ》のきわに、わたくしの手を握り、せめて龍之介と縁日に行くまで生きていたかったとおっしゃいました。それを思うと、この世に未練もないから蓮華の台座で往生するなどと、お釈迦様に対しても無礼千万なことですわね」  いなみもようやく怒りが込み上げた様子で言った。 「どれ、平八郎に加勢するか」  不破は煤《すす》けた天井を見上げて溜め息混じりに呟《つぶや》いた。 「平八郎様は奥様に、天啓寺に通うのをやめるようにおっしゃったのでしょうか」  いなみはふと疑問を覚えて不破に訊いた。  不破は少し居心地の悪い顔を拵《こしら》えて「あの女房が寺通いをするようになったのは、そもそも奴の女が原因よ」と応えた。 「女ですって? 平八郎様にそのような方がいらしたのですか」  その話はいなみにとって初耳だった。 「奴の家に奉公していた下男の娘だ。今は深川で芸者をしている。文吉《ぶんきち》とは顔なじみだ」  不破は今でもお文のことを昔の権兵衛名《ごんべえな》で呼ぶ。 「そうですか……」  いなみは溜め息をついた。 「餓鬼の頃から二人は惚れ合っていたのよ。しかし、奴のお袋が反対して一緒になることはできなかった。うちの親父もずい分説得に行ったんだが、お袋は頑固《がんこ》で、とうとう折れなかったらしい」 「平八郎様のお父様は早くにお亡くなりになっておりますから、お母様はお父様の分までしっかりしなければと気丈にもなりましょう」 「女は|てて《ヽヽ》親の立場や奴のお袋の気持ちを察して手前《てめ》ェから身を引いたのよ。深川から芸者に出たのはそんな経緯《いきさつ》からだ。その後で奴は今の女房と祝言を挙げたんだ」  平八郎の気持ちは子供が三人生まれても変わることはなかったらしい。 「今でも、お二人は互いに忘れられないのですね」  いなみは重ねた手を擦《こす》りながら言った。 「奴はああ見えて存外にうぶな男らしい」  不破の言葉にいなみは低く笑った。 「何んだ、何がおかしい」  不破は怪訝な顔でいなみを見た。 「いいえ。類は友を呼ぶというたとえもございますから……」  いなみは昔の自分達を思い出したようだ。 「おれは違うぞ。おれがお前を女房にしたのは……」 「もうおっしゃらないで。いまさら恥ずかしい」  いなみが遮《さえぎ》るように言うと、不破は黙り、小鬢《こびん》を掻いた。 「お床をのべましょう」 「おれがやる」 「よろしいのですよ。それぐらい、まだできます。あまり何もせずにいると太る一方でございますので」 「無理をするな」  そう言った不破に、いなみはふっと笑顔を返した。      四 「旦那、今日も相変わらず繁昌の様子ですね」  伊三次は天啓寺の開け放たれた門に次々と入って行く人々を眺めながら、そっと緑川平八郎に囁いた。 「うむ」  町人の拵《こしら》えをした緑川は八幡黒《やわたぐろ》の頭巾《ずきん》ですっぽりと頭を覆っている。伊三次も同様の頭巾を被《かぶ》っていた。面が割れない配慮というより防寒のためであった。黙って立っていると身体の芯まで凍えそうになる。しかし、同心、小者の張り込みは季節を問わない。すでに天啓寺の張り込みは十日を数えていた。  天啓寺の前は葱畑《ねぎばたけ》で、半分枯れた葱が引き抜かれないまま、そこここに残っている。  鄙《ひな》びた風景の中で黄金色に輝く大蓮華は一種異様な雰囲気を辺りに醸《かも》し出していた。寺は周りを黒板塀で囲っているが、境内の大蓮華はそれよりはるか高く聳《そび》え立っていた。てっぺんから蓮華の花びらの先端にかけて細い紐が繋《つな》がっていた。蓮華を閉じる時は、その紐を引くのだろう。まるで蜘蛛の巣のようにも見える灰色の紐は師走の風に所在なげに揺れていた。  その日、台座に座る年寄りは米沢町の蝋燭問屋の隠居で、すっかり耄碌《もうろく》していた。自分から往生を願ったものか、それとも家族が手余しして天啓寺に託したものか定かではない。  境内には寒さにも拘《かかわ》らず多くの人々が集まっていた。伊三次はその中に緑川の妻の姿を認めていた。てやも着物の上に被布《ひふ》を羽織り、紫のお高祖《こそ》頭巾で頭を覆っていた。象牙《ぞうげ》の数珠を手にして大蓮華を見上げている。  隠居が境内に現れると、人々の間からどよめきが起きた。それは小塚原《こづかつぱら》で処刑される下手人が刑場に引き出されたのを見るような感じに思えた。 「ここに集まっている奴等は、もはや隠居がくたばることを微塵も疑っておらぬ。何んとも不思議な連中だ」  その中に自分の妻が含まれていると思えば緑川の胸中はいかばかりか。伊三次は緑川の細面をそっと盗み見て「さいですね」と、低く相槌を打った。二人は人で埋まった境内に、さり気なく移動した。  隠居の娘らしい五十がらみの女の悲鳴が聞こえた。寺の若い僧侶と亭主らしいのが女を止めた。隠居の身体は別の僧侶達に伴われて大蓮華の裏手に消えた。呆れるほど長い時間が掛かって隠居はようやく台座に座った。これから己れに何が起こるのか全くわかっていないという表情だ。目脂《めやに》の湧き出た黄ばんだ眼で下の見物人を不思議そうに眺めている。  僧侶が無理やり隠居の手を合掌の形にすると、すばやくその場を離れ蓮華は閉じられた。  十五間(約二十七メートル)ほど離れた寺の中から僧侶達が次々と現れて大蓮華の周りを取り囲む。それから一斉に読経が始まった。鉦《かね》と太鼓も賑やかに打ち鳴らされ、その音は一里先にも聞こえようというものだった。後ろで聞いていた伊三次の耳も仕舞いには、じんじんと痛くなるほどだった。緑川は大蓮華に油断のならない眼を向けている。境内に人が集まる前に一人の僧侶が大蓮華の裏手に向かったのに気づいていたが、その僧侶が出て来た様子はない。中で何か細工しているに違いないのだが、どのような細工なのか見当もつかない。大蓮華の周りには警護の半纏《はんてん》姿の男達も四人ほど見張っていて、傍《そば》には容易に近づけなかった。  一刻近く読経が続いた後、大蓮華の後ろから出て来た僧侶が読経する僧侶達の中にそっと紛れ込んだ。 「そろそろ仕舞いになるだろう」  緑川の言葉の後で、はたして読経は止まり、境内にしんとした静寂が訪れた。軋《きし》んだ音が聞こえ、蓮華がゆっくりと開かれた。おお、と人々から再び、どよめきが起きた。  伊三次は大蓮華に近づけるだけ近づいた。  半纏姿の男が伊三次を荒い言葉で制した。  大蓮華の台座は頭よりはるか上にある。隠居が前のめりになっていることだけが、かろうじてわかった。  台座に上がった僧侶が隠居の身体を地面に下ろすと、男達は軽々と受け取り、あらかじめ敷かれていた筵《むしろ》に隠居を寝かせた。その刹那、伊三次は境内の玉砂利に僅かに血が滴《したた》ったのを見た。血の痕は男達の雪駄《せつた》がすぐに覆い隠してしまった。  寺の中から医者らしいのが、せかせかした足取りで近づいてきた。  医者は横たわっていた隠居の瞼《まぶた》を閉じて「ご臨終でございます。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と静かな声で言った。  悲鳴を上げた女は、もはやわめくことはなかった。隠居は戸板に乗せられて境内の外に運ばれて行った。 「行くぞ」  戻って来た伊三次に緑川は顎《あご》をしゃくった。  てやがこちらを見ていたのに伊三次は気づいたが、知らぬ振りをして緑川の後に続いた。  米沢町の蝋燭問屋「船橋屋《ふなばしや》」は、すでに葬儀の用意を始めていた。 「旦那、これから何を探るんで?」  伊三次は呑み込めない顔で緑川に訊いた。  どうせなら天啓寺に留《とど》まって大蓮華の構造を探るのが先ではないかと考えていたからだ。  きっと大蓮華にはからくりがある。それは紛れもないと思った。 「弔いをする前に仏を湯灌《ゆかん》するだろうが」  緑川は訳知り顔で応えた。 「へい、そうですが」 「湯灌師から仔細を訊《たず》ねるのよ。何か出てくるかも知れねェ。毒を盛った痕もねェ、何もねェといったところで、念仏だけで年寄りが簡単にお陀仏になるものか」  吐き捨てるような言い方は不破とそっくりだった。 「さいですね」 「船橋屋が大店《おおだな》でよかったぜ。そうでなけりゃ、湯灌もあすこの寺の湯灌場でやらされたことだろう」  地主や家持ちでない者は、自宅で湯灌することは禁止されていた。寺は中に湯灌場を備えていた。船橋屋の隠居は自宅でそれができる数少ない一人であった。緑川はそこに目をつけていたようだ。 「お前ェはどう思うよ」  緑川は伊三次に意見を求めた。船橋屋の店先を人が慌ただしく出入りしている。湯灌をするにしても、まだまだ先になりそうな気がする。しかし、緑川は船橋屋の少し離れた横丁の角から動く様子を見せなかった。 「さあ……」 「寒さで血のめぐりが悪くなったのか? 一杯引っ掛けるか、ん?」 「あいにく、わたしは下戸《げこ》なもんで」 「そうだったな。それにしても冷える。おう、ちょいと船橋屋の番頭にでも湯灌師の名前ェを訊いてこい」 「旦那、落ち着いて下せェ。顔も知れねェわたしに向こうが素直に喋る訳がありやせんよ。何んのためにそんなことを訊くんだと変に思われるだけです」 「………」  緑川はそれもそうだと納得したのか憮然とした表情で押し黙った。 「近所を廻って参りやす。旦那、ちょいと待っていておくんなせェ」  伊三次は客の一人が船橋屋の近くにいたことを思い出し、そちらに訊ねることにした。  伊三次の客である金物屋の主《あるじ》に船橋屋の隠居が蓮華往生したことを告げると主は呆れ顔をした。船橋屋の隠居は耄碌が激しく、おまけにあちこち歩き廻るので家族はずい分、悩まされていたらしい。とうとう、そんな手を使ったのかと不愉快そうであった。天啓寺に不審を抱いている人間は町家の連中にもいたのだと思うと伊三次は少し、ほっとする気持ちになった。傍にいた女房が、横山町の年寄りの湯灌師の名を教えてくれた。  伊三次が戻った時、緑川は寒そうに横丁の塀に寄り掛かり、ぼんやりした顔をしていた。  緑川が何を考えていたのか、その時の伊三次にはもちろん、知る由もなかった。      五  お文は世話になっている芸妓屋のお内儀《かみ》から、最近、肥えたようだと言われて冷や汗が出た。腹の子は日々成長している。もはや肩で息をするような状態なのだが、お座敷に出るのをやめる訳にはゆかなかった。大《おお》晦日《みそか》には実入りのよかった商家の旦那衆が年越しの宴を張るので祝儀が期待できる。日本橋は廻船《かいせん》問屋が軒を連ねている所なので、こちらの寄合も深川の材木問屋の連中と遜色《そんしよく》がないほど派手だった。  正月には新年を祝う会も催され、芸者は休む暇もないのである。  喜久壽から進呈された衣裳は大助かりであった。伊三次はこの頃、疲れた様子を見せている。緑川の伴《とも》をしているのでは気骨も折れることだろう。それにもまして、本業の廻り髪結いの仕事が時節柄忙しくなっていた。  その夜も、お文がお座敷から戻ってしばらくしてからようやく帰って来た。 「|まま《ヽヽ》喰うかえ」  お文は茶漬けの用意をしながら訊いた。 「いいや。飯は緑川の旦那と途中で喰った」 「そうかえ。そいじゃ、わっちだけ……」  お文はお櫃《ひつ》の冷や飯を茶碗によそうと、火鉢の鉄瓶の湯をどぼどぼと注いだ。伊三次は火燵《こたつ》に入り、背を丸めてお文が茶漬けを掻き込む様子を見ていた。二杯目の飯をよそった時「お前ェ、この頃、やけに喰うな」と、苦笑混じりに呟いた。 「あい。腹が減ってやり切れないのさ」 「色気のねェ話よ。まるで餓鬼でもできたみてェに、わさわさ喰いやがる」 「子ができたおなごは、わさわさ喰うのかえ」  お文は上目遣いで伊三次を見ながら訊いた。 「姉ちゃんがそうだった」  伊三次の姉は京橋の炭町に住んでいる。ずっと一緒に暮らしていたので、伊三次は姉が子を孕んだ様子を覚えていたようだ。 「変なものでよ。姉ちゃんは普段、西瓜《すいか》が大の苦手だったのよ。ところが、一番上の友吉《ともきち》ができた時は西瓜がやけに喰いたくなって夏の頃は毎日のように喰っていたな。友吉を産んだ途端、西瓜は見るのも嫌《い》やになった」  お文は喉の奥からこもったような笑い声を立てた。小丼には梅干しが五つ六つ入っていた。お文は二杯の茶漬けを食べる間に、その梅干しをすべて平らげた。 「お文……」  伊三次は心細いような声を上げた。お文は伊三次の顔を見ずに、そそくさと茶碗を流しへ持って行った。伊三次はその後を追い掛けた。 「おれに言うことがあるんじゃねェのか」 「何んだろうねえ」  お文はわざとはぐらかす。 「おい」  伊三次はお文の肩を掴み、自分の方へ振り向かせようとした。お文はその手を邪険に払った。 「そうなのか?」 「………」 「よう、答えやがれ」 「わっちは下手人じゃござんせんよ。八丁堀の旦那に使われる小者に答えることなんざありゃしない」  お文は伊三次に背を向けたまま茶碗を洗う。  生まれてからこの方、これほど体裁の悪いこともなかった。伊三次の顔を見たら、にやけた笑いになりそうで、それを堪《こら》えるためにお文はわざと怒ったような表情でいた。 「髪結いのご新造《しんぞ》さん、|やや《ヽヽ》ができたんでござんすかい」  誰の真似なのか伊三次は女の声色《こわいろ》で茶化すように訊いた。たまらずお文は噴《ふ》いた。 「ばか」 「亭主に向かってばかとは何んだ」 「もう察しはついているんだろう? それなら四《し》の五《ご》の言わないどくれ」  お文は茶の間に戻り、火燵に屈《かが》み込んだ。 「いつ生まれるのよ」  伊三次はお文の横に並ぶように火燵に入り、答えを急《せ》かす。 「ちょいと、鬱陶《うつとう》しいよ。離れておくれ」 「よう、いつなんだってば」 「来年の春だよ」 「……そうか。春か……」  そっと伊三次を見ると笑いを堪えるような顔をしている。喜んでいるのだと思った。 「お稼ぎよ」  お文は静かな声で言った。 「あたぼうよ……そうか、できたってか? こりゃてェへんだ」  そのまま畳に引っ繰り返る。頭の後ろで手を組み、しばらく天井を眺めていたと思うと、また起き上がる。落ち着かないこと夥《おびただ》しい。 「お前ェ、まだお座敷に出るつもりか」  途端に心配そうな顔で訊いた。 「年末年始は芸者のかきいれ刻《どき》だ。それが済んだら休ませて貰うよ」 「しっかりしているな」 「あい、しがない廻り髪結いの女房でござんすからね、稼げる内は稼いで、お足を貯めておくんだよ」 「不破の旦那には当分、黙っていようぜ。何しろ、あの人はうるせェから」  伊三次は妙に舞い上がっていた。その夜、もう遅いからと何度言っても興奮した伊三次はいつまでも喋り続けていた。      六  緑川平八郎が自ら大蓮華の台座に上がると明かされた時、さすがの不破も眼を剥いた。  そこまでする必要があるのかと思った。だが、緑川の決心は堅かった。 「お奉行に申し上げたのか?」  見廻りに出る前の僅かな時間、同心詰所の片隅で緑川と不破は声をひそめて話し合っていた。 「いいや」  緑川は脚絆《きやはん》を足に巻きつけながら、あっさりと応えた。その日の緑川は外廻りをする商家の手代のような恰好だった。隠密同心は変装して市中を廻るのがもっぱらである。外はこの頃、霏々《ひひ》と雪が降り続いていた。 「なぜだ」  不破は怪訝な顔で訊く。 「申し上げたら止められる」 「しかし、もしもの時には手の施しようがねェ。ここは寺社奉行所に訴えて、向こうに任せる方がいい」 「寺社は腰の重い連中が揃っておる。伺いを立てても容易には動かぬ。それより確かな証拠を掴む方が先だ」 「………」  証拠を掴んだ時、手遅れということも考えられた。かといって、おおっぴらに奉行所の中間《ちゆうげん》を出動させることもできない。管轄違いではその許可も下りないだろう。 「お奉行はそこまで望んでおられぬ」  不破は緑川のやり過ぎをやんわりと窘《たしな》めた。 「こいつは、もはやお奉行には関係のないおれ自身の問題なのだ」 「どういうことだ」 「女房はそこまでしなければ得心せぬ」  緑川は、てやのためにそれをしようとしているのだった。不破はそれに気づくと新たな緊張を覚えた。 「段取りはつけたのか?」  不破は深い吐息をついてから訊いた。 「伊三次の近所に翁屋《おきなや》という箸屋《はしや》がある。そこにお誂《あつら》え向きの年寄りがいるんだ。伊三次が主に口を利いて、表向き、その年寄りを台座に上げることにして貰った。当日はもちろん、おれだ。伊三次が鬘《かつら》屋から年寄りの鬘を借りてきて、うまく年寄りに化けるという寸法だ」  余計なことをする奴だと不破は内心、伊三次に対して腹を立てた。 「おれは何をしたらいいんだ」  不破は低い声で続けた。 「まあ、傍にいてくれるのなら、おれも心強いがの」 「小者を掻き集めて張り込むか」 「恩に着るぜ。本年最後の蓮華往生だ。さぞかし賑やかなことだろうて」  緑川は他人事《ひとごと》のように言って破顔した。  不破が中間の松助《まつすけ》を伴って佐内町の伊三次の家を訪れたのは、その日の夕方のことだった。あいにく伊三次はまだ戻っていなかった。不破は弱った顔で月代《さかやき》をつるりと撫で上げ、土間口から表を見た。いましも伊三次が戻って来ないかという顔である。お文はお座敷が掛かっていなかったので、二人を中に招じ入れた。不破は少しためらうような表情をしたが、外で待つには寒さがこたえる。松助に顎をしゃくって雪駄を脱いだ。 「うちの人は緑川の旦那と一緒だと思いますよ」  お文は茶の入った湯呑を二人に差し出して言った。 「わかっておる」  すさかず手を伸ばして不破は湯呑を口に運んだ。 「蓮華寺のことを探っているようで」  話を続けたお文に不破は返事をしない。務め向きのことは気軽に口にしない男である。 「喜久壽姐さんもずい分、心配なさっておりましたよ」 「深川の芸者のことか」 「あい」 「ここへ来たのか」 「ええ、ほんの五日ほど前です」 「どうだ? 奴とその女は続いている様子か」  不破は首を伸ばしてお文に訊いた。お文は嫌やな感じがした。喜久壽の気持ちなど不破にわかりはしないと思う。まして同じ芸者同士なら喜久壽を庇《かば》いたい。 「緑川の旦那と姐さんは幼なじみですよ。世間の噂になるような間柄じゃござんせんよ」 「文吉、手前ェも焼きが回ったな。何が世間の噂になるような間柄じゃねェだ。ほざきやがれ」  不破は不愉快そうに吐き捨てた。 「旦那」  松助が遠慮がちに制した。お文は松助を目顔《めがお》でいなして「旦那だってそれはご存じのはずじゃないですか。緑川の旦那は確かに姐さんの所へ寄ることもありますけれど、尺八をさらって貰ったり、たまにお酒を飲む程度で決して緑川の奥様やお子達に迷惑の掛かるようなことはしておりませんよ」と言った。 「そいじゃ、どうして奴の女房が毎日のように寺に通うんだ? 女房は奴とその女のことで悩んでいるからこそ、寺通いをして気持ちを静めているんじゃねェか」  不破にそう言われてお文は黙った。芸者の世界に長くいるお文は、どうしても正妻の気持ちを忘れがちになる。言葉に窮して俯《うつむ》いた時、九兵衛の「ただ今、戻りやした」という元気のよい声が聞こえた。お文が土間口へ出て行くと後ろに伊三次が立っていた。お文はほっとして「不破の旦那がお見えだよ」と、告げた。  伊三次は少し顔をしかめ「九兵衛、今日はもう引けていいぜ」と、台箱を持っていた九兵衛に言った。 「そいじゃ、親方、お先にご無礼致しやす」  九兵衛はしっかりした挨拶をして帰って行った。  伊三次は気後れした顔で茶の間に上がると、「お待たせしてあいすみません」と頭を下げた。 「お前ェ、何んで黙っていた」  不破はいきなり伊三次に訊いた。 「へ?」 「へ、じゃねェ、おきゃあがれ。緑川は手前ェから蓮華の台座に上がるっていうじゃねェか。それをお前ェがご丁寧に段取りをつけてよ、何を考えてるんだ、この唐変木《とうへんぼく》!」  荒い言葉が立て続けに不破の口から吐かれた。伊三次は膝頭を両手で掴んで、じっとそれを聞いていた。お文は驚いた。まさかそんなことになっているとは思いも寄らない。不破の怒りはもっともだった。 「旦那が止めていただけるんですかい」  伊三次が怒りを堪えて低い声で訊いた。 「何んだと」 「それでしたら、いっそ気が楽でさァ。緑川の旦那はどうでも意地を通しなさるお人です。わたしがどう言ったところで聞きゃあしやせん。それなら、お務めがうまく行くように、できるだけのことをするのが小者の役目ってもんです」  伊三次の言葉に松助が低く肯《うなず》いた。 「そいで緑川に年寄りの恰好をさせるって寸法か。とんだ三文芝居だ」 「大蓮華のからくりは、外から眺めているだけじゃわかりやせん。中に踏み込まねェと埒《らち》は明かねェとわたしも思いやす。だが、寺は本来、町方のお役人が入り込むことはできやせん。あの蓮華を調べることはとても無理です。緑川の旦那も張り込みを続けている内に、こいつは中に入るしかないと思われたようです。そのためにはどうしたらいいか、さんざん悩んだ末に決められたことです。どうか旦那、了簡しておくんなさい」  伊三次はそう言って深々と頭を下げた。 「仕方がねェか……」  不破は溜め息をついて天井近くの梁《はり》を睨《にら》んだ。 「深川の増蔵《ますぞう》に繋ぎをつけろ。当日は天啓寺に来いとな。松助は京橋の留蔵《とめぞう》と弥八《やはち》に伝えろ」 「へい」  伊三次と松助の声が重なった。 「皆、怪しまれねェように寺参りの恰好にしろ」 「こちらも三文芝居の役者ですね」  松助はつまらない冗談を言った。不破はぎらりと松助を睨んだが何も言わなかった。空《から》になりそうな湯呑に手を伸ばした不破を見て、お文は慌てて急須に湯を注いだ。鉄瓶を持つ手が僅かに震えた。  喜久壽に知らせなければ、お文はそればかりを考えた。      七  夜半に降った雪は明け方にはやんだ。薄陽も射してきて、どうやら天気だけは上々の首尾である。御納戸《おなんど》色の着物に対《つい》の羽織を重ねた伊三次は頭巾を被った。 「お前さん、緑川の旦那が危なくなったら、どうやって助っ人するんだえ?」 「弥八がすぐさま蓮華に上がる」 「だけど……その前に合図か何かできないだろうか」 「合図?」 「そうさ。見物しているお前さん達にわかるようにさ」 「台座で怒鳴ったところで坊主の念仏で聞こえねェよ……大丈夫だって。あの旦那のことだ、へまはしねェ」 「蓮華が閉じたら身動きできないんじゃないのか? 幾ら旦那が剣の達人でも手も足も出せやしない」 「お文……」  伊三次は途端に心細い顔になった。お文は油障子を透かして入って来る陽射しに視線を向けて「いい天気になったねえ。こんな日にとんでもないことが起こったら、わっちは死ぬまでお天道さんを憎んでしまいそうだよ」と、独り言のように呟いた。伊三次も何気なく外に眼を向けたが、突然、思いついたように神棚の下に置いてあった台箱を開けた。 「何をするつもりだ」 「これよ」  伊三次は台箱の中から手鏡を取り出した。 「それが役に立つのかえ?」  お文はまだ理屈がわからない。 「今日はお前ェが言うように天気がいい。お天道さんはずっと頭の上にいるだろう。そいで台座に上がる旦那にこれを持たせて、何かあった時はぴかりと光らせるのよ」  鏡の反射で伊三次達に知らせようというのだ。 「お前さん、頭がいいよ」  お文は張り切った声を上げた。 「あたぼうよ。こちとら餓鬼の頃から賢《かしこ》い伊三ちゃんで通っていらァな」 「………」  伊三次は懐に手鏡を入れると草鞋《わらじ》履きの足許も軽く表に飛び出して行った。  姐さん、天啓寺に向かっただろうか。お文はぺたりと畳に座って思っていた。不破が訪れた翌日に、お文は九兵衛を伴って深川に行ったのだ。九兵衛は寒さにも拘らず遠出に喜んでいた。喜久壽は唇を噛み締め「わかりました。わざわざお知らせ下すってありがとう存じます」と、丁寧に礼を言っていたが。  酔狂に翁屋の主と女房も天啓寺に同行した。  親孝行な翁屋|八兵衛《はちべえ》は年寄りを蓮華で往生させようとする寺の考えも、それを頼む家族の気持ちも理解できない。話の種に見物しようということになったのだ。天啓寺に差し出す布施は八兵衛が張り込んでくれた。  翁屋の夫婦も変装した緑川も見事な役者ぶりであった。八兵衛の女房の|おつな《ヽヽヽ》は今生の別れをする段になって感極まり、本当に泣きだす始末であった。  伊三次は寺の中に入る前に緑川にそっと手鏡を渡した。緑川は感心した顔でそれを懐に収めた。  台座に緑川が上がった時、伊三次は新たな緊張を覚えた。それは、てやのことであり、喜久壽のことだった。喜久壽は境内の後方にひっそりと立ち、てやは群衆の半ば辺りにいた。いつものお高祖頭巾を被っている。深川の岡っ引きの増蔵は喜久壽の傍にいた。喜久壽が取り乱したら、すばやく境内の外に連れ出すつもりだった。てやの近くには留蔵と弥八が控えていた。不破は松助と一緒に寺の入口に近い場所にいる。ぶっさき羽織、たっつけ袴《ばかま》の不破は枯野見《かれのみ》の趣向で散策に出た風流な武士のようにも見える。武士の姿も境内には何人か混じっていたので、周りに不審を抱かせるほどではなかった。  伊三次はてやの後方にいた。時々、お高祖頭巾の頭をちらちらと見ていた。  さっきまで文句のつけようのないほどよい天気だったのが、突然に陽射しが陰り、厚い雲が垂れ込め始めた。  伊三次の胸に不安がよぎった。てやのお高祖頭巾が見えなくなった。伊三次は慌てて辺りを見回す。それと同時に蓮華が閉じた。留蔵と弥八が動いた。てやはその場にしゃがみ込んだのだった。てやの悲鳴は僧侶達の読経の声に掻き消された。  蓮華が閉じる刹那、てやは緑川に気づいたらしい。留蔵と弥八はてやの両側から支えるようにして境内の後ろに連れて行く。振り向くと喜久壽もしゃがみ込んで増蔵に介抱されていた。  鉦と太鼓、僧侶達の験者声《げんざごえ》の迫力。伊三次はつかの間、眼を閉じた。このまま緑川にもしものことがあったら、自分はどうしたらいいのだろう。きっと、緑川を助けられなかった自分を死ぬまで責めることだろう。それは嫌やだ、そんな後悔はしたくない。  かっきりと眼を開けた伊三次は奥歯を噛み締めると人垣の前に進んだ。すでに半刻《はんとき》(約一時間)ほど時間は経過している。 「伊三!」  不破の声が聞こえた。半纏姿の男達が伊三次の前に立ちはだかる。 「旦那、旦那、もうやめて下せェ!」  伊三次は台座に向かって叫んだ。男が二人掛かりで伊三次の腕を取った。 「うるせェ、放しやがれ、この人殺し!」  わめく伊三次に、さすがに僧侶達が驚いて読経を止めた。その瞬間、ぎゃっと台座から悲鳴が上がった。閉じた蓮華が奇妙に揺れた。弥八はすばやく蓮華の後ろに回った。追い縋《すが》る男を足で蹴った。その動きに無駄がない。不破も蓮華に近づき、男達に刀を抜いた。見物人は慌てふためいて境内の外に逃れる。 「平八郎、無事か」  不破は大音声《だいおんじよう》で怒鳴った。 「おう」  存外にしっかりした声が応えた。弥八が僧侶に蓮華を開けさせると、そこには槍を手にした緑川が仁王立ちになっていた。 「天啓寺のからくり、しかと見届けましたぞう」  その台詞《せりふ》は芝居掛かって聞こえた。伊三次はしかし、緑川の名演技に感動した。僧侶達が慌てて寺に走り込むのを松助と留蔵が制した。 「神妙にしろ」  弥八が頭から血を流している僧侶を引き出して来たのは、そのすぐ後であった。      八  緑川平八郎は台座に上がった時、そこに一寸ほどの穴が空いていることに気づいた。師走のことで、その穴から風が吹き上がった。  最初からその穴に不審を覚えた訳ではなかった。伊三次から渡された手鏡は陽射しが陰ったために用はなさないと思った。それで風除けのために手鏡を穴の上に置いた。  ところが、しばらくすると股間に衝撃がきたという。手鏡は青銅で造られているので存外に丈夫であった。緑川は立ち上がり、そっと手鏡を外すと、その穴から槍の先が伸びてきた。手応えがないので槍は何度も突き上げられた。  緑川は隙《すき》を窺《うかが》って槍の柄《え》を掴み取り、逆に上から下へ槍の切っ先を向けて、下にいた僧侶の頭を突いたのである。  年寄りは閉じた蓮華の中で槍に突き立てられて絶命したのである。年寄りなので、かつてない衝撃に心《しん》ノ臓《ぞう》が大いに影響を受けたとも考えられる。皆、ほぼ即死の状態であった。断末魔の悲鳴は読経の声に掻き消されていたのだ。  米沢町の船橋屋の隠居を湯灌した湯灌師は蓮華往生した隠居が少し下血を洩らしていたと告げたが、その時の緑川と伊三次は、まさかそのような手段で年寄りを死に至らしめているとは思ってもいなかった。緑川は蓮華の台座に上がって、ようやく合点《がてん》がいったのである。  天啓寺では長いこと待たされた。北町奉行所に使いを出し、永田備後守に仔細を告げ、それから備後守から寺社奉行に連絡が行き、寺社奉行所の連中が捕物装束で現れたのは、すでに日も暮れ、闇も深くなった頃だった。  寺社奉行所は寛永十二年(一六三五)に設置されたのが嚆矢《こうし》である。初めは金地院崇伝《こんちいんすうでん》らの僧侶が寺社行政をつかさどっていたが、寺院法度の発布により寺院僧侶を世俗から切り離し、本寺が末寺を支配するという制度を利用して寺院を幕府の統制下に置いた。以後、寺社奉行所は僧侶の関与を許さず、幕臣がこれに当たった。とはいえ、三奉行所(寺社・勘定・町)の中で寺社が一番権威が高く、町奉行所の介入は許されなかった。天啓寺は日蓮宗の末寺であったため、寺社奉行所の目も届かなかったと思われる。蓮華往生で布施が集まるようになった天啓寺は本寺を無視する形で独自に寺の運営を始めた。天啓寺に対する咎《とが》めは大蓮華を使っての不純な行為よりも本末制度をないがしろにしたことの方が大きな理由であった。  緑川と不破が寺社奉行に事件を引き継ぎ、ようやく浅草から戻って来た時は早や、町木戸も閉じられる時刻となっていた。  疲れよりも寒さですっかり身体がかじかんでいた。留蔵に湯に入ってゆけと勧められたが、伊三次は空腹も覚えていたので、それを断った。不破の小者達は一様に水洟《みずばな》を啜り上げ、情けない面相をしていた。  戻ってみるとお文の姿がなかった。九兵衛が茶の間に蒲団を敷いて寝ていた。 「おう、お文はどうした?」  伊三次は九兵衛を起こして訊ねた。 「おかみさんは八丁堀です」  九兵衛は眠そうな声でようやく応える。 「八丁堀?」 「おかみさんがお座敷から戻ってくると、不破様のお屋敷から使いが来て、旦那はどこにいるのかと訊ねたそうです」  松助は一緒にいたから、来たのは下男の作蔵《さくぞう》だろう。 「旦那の奥様が産気づいたそうです。おかみさんは慌てておいらを呼びにきて留守番するようにと言って出かけました」  作蔵は不安になって伊三次の所へ様子を見に来たのだろう。女中の|おたつ《ヽヽヽ》がいるといっても、女手があるのはありがたいはずだ。  伊三次は九兵衛に寝てろと言い添えて自分も八丁堀へ向かった。お文の身体が心配だった。  不破の組屋敷は煌々《こうこう》と灯りがともっていた。  勝手口から訪《おとな》いを入れると、お文が慌てて油障子を開けた。 「来てくれたのかえ? 助かるよ。湯を沸かしているところだ。手伝っておくれな」  お文は早口で言った。袖を襷《たすき》で括《くく》り、着物の裾もはしょって赤い蹴出《けだ》しが見えている。 「桶なんざ持つんじゃねェぞ」  伊三次は台所の座敷に置かれた盥《たらい》の位置を直しながら言う。 「わかっているよ」 「おたつさんは?」 「奥様のところだ。産婆が取り上げたら、すぐさま知らせてくる……ちょいと、部屋は寒くはないかえ」 「そ、そうだな」  伊三次は火鉢の炭を掻き立てた。 「旦那はまだ戻っていなさらねェのか」  伊三次は火吹き竹を使いながら竈《かまど》の前にいるお文に訊いた。 「とっくにお戻りさ。奥様の部屋の前でおろおろしているよ」 「おもしれェ……」  竈の火と釜の湯気で座敷は熱気がこもってきた。伊三次もようやく身体に温もりを感じ始めていた。佐内町にいたなら蒲団に入っても朝まで眠れなかったことだろう。 「寺に喜久壽が来ていたぜ」  そう言うとお文は振り向き、「どんな様子だった」と訊いた。 「台座に上がって蓮華が閉じられた時は、さすがに具合が悪くなってしゃがみ込んじまった」 「無理もないよ。もしものことがあったらと、気が気でなかったんだろう。無事でよかったよう」  お文はしみじみと言った。 「旦那の奥様も胸にこたえた様子でしゃがみ込んじまったのよ。あれは蓮華が閉じる時、旦那と眼が合ったんだな」  伊三次は思い出すように言った。 「姐さんとは? 姐さんと旦那は眼を合わせたのかえ」  お文はそれが肝腎とばかり続きを急かす。 「そいつはわからねェ。だが、奥様がしゃがみ込んで、留さんと弥八が連れ出した時に、ひょいと後ろを振り向くと喜久壽も増さんに背中を摩《さす》られていたのよ」 「………」  お文は思案顔でまた火吹き竹を口にした。 「違う」  お文は突然、声を上げた。 「何んだ?」  伊三次は怪訝な顔でお文を見た。 「旦那は、最後は奥様とだけ眼を合わせたんだ。それを見た姐さんが胸にぐっとこたえたんじゃないだろうか」 「わからねェ。旦那は奥様の後で喜久壽の方を見たんじゃねェのか?」 「そんな余裕はあったかえ? 本当なら旦那は奥様にも素性を知られたくなかったはずだ。だが、覚悟の上で蓮華に上がったのなら、最後の最後に言い残す言葉があるのは姐さんじゃなく奥様の方だ。まして旦那は奥様の寺通いをやめさせるために、あの寺を張っていたんだろ? 旦那は姐さんよりも奥様を選んだんだ」 「選んだ?」 「そうさ。もしもの時には子供達をしっかり育ててくれと、男親なら思うはずだ。旦那は奥様にそれを言いたかったんだろう」  あの切羽詰まった状況の中で二人の女の鞘当《さやあ》てが展開されていたのだろうか。どっちを選ぶ。本妻か、昔から言い交わした女か。女は怖いと伊三次は思った。  いなみに生まれる兆しはなかなか訪れなかった。待たされることが多い日だった。そういう巡り合わせの日なのだろうと伊三次は思った。  夜が白々と明けた頃に、ようやくおたつの声が聞こえた。 「ほ、やっと生まれたらしい。こうと半日掛かりだねえ」  お文は火吹き竹を持ったまま立ち上がり、安心したように言った。 「ほら、ぼやぼやしないでお湯を入れておくれ」  お文は伊三次に命じた。 「お文さん、いい? お嬢さんが行きますよう」  おたつの声が弾んでいた。女の子らしい。産婆に抱えられた赤ん坊がやって来たのは、そのすぐ後だった。  不破はおずおずとした表情で入って来た。 「旦那、おめでとうございやす」  伊三次は盥に湯を張ると満面の笑みで祝いを述べた。 「うむ」 「さあさ、お嬢さん、産湯を使わせて貰いましょうね。芸者さんの沸かしたお湯だ。景気がいいってものだ。おや、髪結いの旦那も一緒かい。今からお湯を使わせる稽古かえ? 殊勝なこって。今度ァ、お前さん達の番だねえ。忙しいったらありゃしない」  年寄りの産婆は軽口を叩きながら器用に赤ん坊の身体を盥に沈めた。不破は怪訝な顔で伊三次の顔を見ている。 「旦那、奥様の所へ行って下せェ。邪魔ですよ」  伊三次は邪険に言って不破を追い出した。 「お浜《はま》さん、うちの奴の時もよろしくお願い致しやすよ」  伊三次は小声で産婆に囁いた。 「あいよ」  産婆は張り切って応える。その声が勇ましかったのか、赤ん坊は驚いて泣き声を高くした。赤く皺《しわ》だらけの赤ん坊はお世辞にも可愛いとは言えない。けれど、四肢を突っ張って蠢《うごめ》く赤ん坊に伊三次は確かに生命を感じた。  気がつくと、お文も伊三次の横で眼を細めて眺めている。 「旦那によく似ているよ。|おみきどっくり《ヽヽヽヽヽヽヽ》だねえ」  お文の言葉に伊三次は真顔になった。 「似ているってか? てェへんじゃねェか」  不破に似た娘など伊三次には想像もできなかった。 「大晦日の忙しくなる前に生まれて来たんだから親孝行な娘だよ」  だが、産婆はそんなことを言って皺深い顔を弛《ゆる》めた。  朝飯を馳走になってから伊三次とお文は不破の屋敷を出た。赤ん坊の誕生が二人を昂《たかぶ》らせていたのだろう。不思議に疲れは感じなかった。その日非番の不破は、伊三次に髪を結わずともよいと言ってくれた。なに、無事にいなみの出産も済んだことだし、これからゆっくり朝寝をきめ込むつもりなのだ。  伊三次はそうしてもいられない。正月を控え、贔屓《ひいき》の客が手ぐすね引いて待ち構えている。お文も九兵衛を連れて年の市へ出かけ、正月もののあれこれを用意しなければならない。それが済めば大掃除である。九兵衛の母親のお梶《かじ》が手伝ってくれると言っていた。  海賊橋《かいぞくばし》を渡る時、朝陽が眩《まぶ》しかった。久しぶりによい天気になりそうである。 「姐さん、どうしているだろうか」  お文は思い出したようにぽつりと呟いた。  伊三次は逆に緑川平八郎の妻のことを考えた。お文の推量が当たっているとすれば、てやはもう迷うことはないはずである。お上《かみ》の手が入った天啓寺に通う必要もない。まずは夫婦安泰というものだ。 「男と女は難しいねえ」  お文はしみじみした口調で続けた。 「何んだ改まって」 「いえね、男は器用に女と女の間を渡り歩くが、女はたった一人の男をじっと待っているしかないからさ」 「喜久壽にもやっちゃ場の旦那がいるだろうが」  そう言うと、お文は「旦那は旦那さ」と笑った。 「普段は女房の愚痴をこぼしているくせに、結局最後は女房の所へ戻って行くのさ。それがいっち丸く収まる方法だと男は知っているんだ。たまに曲げて女房の所を飛び出す奴もいるが、誰も一途な男だと褒《ほ》めはしない。馬鹿者と笑われるだけさ」 「お前ェよ、どっちの味方なんだ? 本妻か妾か?」 「わっちが喜久壽姐さんの肩を持つような言い方をしたら不破の旦那に怒鳴られたよ。焼きが回ったのかってね」 「………」 「緑川の奥様は姐さんのことを知って悩んでいたから寺通いをしていたんだ。蓮華寺の事件でもなかったら、寺通いは続いていただろう。姐さんと旦那の間もそのままだった。だが、緑川の旦那は身体を張って奥様を諫《いさ》めた。わっちは緑川の旦那を大した男だと感心したものさ」  しかしお文は、そう言いながら喜久壽の内心を思うと切なかった。 「これから緑川の旦那と姐さんはどうなるんだろう」  お文は海賊橋の下の楓川《かえでがわ》に視線を落として独り言のように続けた。 「さあ……」  伊三次も朝陽を照り返す水の面を見つめて小首を傾げた。先のことなどわからない。なるようにしかならぬのが世の中である。だから、浮き世、憂《う》き世と人は言う。 「さあて、他人様のことより手前ェのことが先だ。お文、急ぐぜ」  伊三次はすっとお文の背中を押した。お文はまだ割り切れないような顔をしていたが、伊三次に急かされて「あい」と応えた。  そのまま二人は佐内町に向けて足早に歩みを進めていた。  明日は大晦日── [#改ページ]   畏《おそ》れ入谷《いりや》の      一  穏やかな正月であった。さほど雪も降らず、三が日は明るい陽射しが終日江戸の町々に降り注いでいた。  しかし、八丁堀、亀島町《かめしまちよう》の不破友之進の組屋敷からは赤子の泣き声が賑やかに聞こえていた。せっかくの正月だというのに不破はのんびりと酒も飲んでいられなかった。  前年の暮に生まれた長女|茜《あかね》のせいで不破家は気ぜわしいこと、この上もない。産婆のお浜が茜に湯を使わせに通って来るので、朝からその仕度でてんてこ舞いである。それが済んでも、やれ乳の時間だ、やれ、|むつき《ヽヽヽ》が汚れたのと、落ち着く暇もない。  妻の|いなみ《ヽヽヽ》は、産褥《さんじよく》でまだ臥《ふ》せっている状態である。女中の|おたつ《ヽヽヽ》がいるといっても、不破と息子の龍之介の世話までそうそう手が回らない。二人は茜が生まれてから放って置かれる形になっていた。  仕方なく不破は龍之介を伴い、八丁堀の朋輩《ほうばい》の家に立ち寄って夕方まで時間を潰そうとするも、訪問した家はどこも正月のことで親戚やら知人やら、来客が引きも切らず、寛《くつろ》げる状態ではなかった。半刻《はんとき》(約一時間)もしたら早々と暇乞《いとまご》いする始末である。  その日もそうだった。  だが、うらうらとした陽気は、そのまま二人の足を自宅に向けさせようとはしなかった。息子と連れ立って歩くなど、正月以外に滅多にない機会でもある。 「伊三次さんの家に行きましょうか」  龍之介はふと思いついたように言った。この頃、とみに背丈が伸びた。あと二、三年もしたら不破と同じになるか、場合によっては追い越されかねない。 「よせよせ。奴は女房と水入らずの正月だ。おれ達が顔を出しては邪魔になる」 「そうでしょうか。伊三次さんは正月になったら遊びにいらっしゃいと言いましたよ」  龍之介は不服そうに口を返した。 「そいつはな、お愛想というものだ。あいつは心にもねェことを、その場しのぎに|しゃらり《ヽヽヽヽ》と言う男だ。まともに取ることはねェ」 「そうでしょうか」 「どれ、散歩がてら通油町《とおりあぶらちよう》の絵草紙屋でもひやかしに行くか」 「そうですね。父上、その後で汁粉《しるこ》屋に連れて行って下さい」 「おれァ、汁粉なんざ見たくもねェわ」 「じゃあ、蕎麦でもいいですよ」 「蕎麦か……」  不破は蕎麦屋の二階でゆっくり酒を飲むのも悪くないと思うと「ま、それもいいな」と応えた。 「龍之介よ、来年、奉行所に見習いとして上がるつもりはあるかい」  不破は通油町へ向かう道々、龍之介に訊《たず》ねた。 「元服前にですか?」  龍之介は怪訝な顔で父親の顔を見た。龍之介は年が明けて十三歳になったばかりである。 「うむ。お前ェが元服を終えた後で見習いになる時、他に同じ年頃の者がいねェのよ。来年見習いに上がる者は四名ほど決まっておる。それで、少し早いが一緒にしたらどうかと与力様より内々に話があったんだ」 「どうなのでしょう」  龍之介は他人事のように言う。大事な話を歩きながら口にする父親の気が知れないという顔だった。 「嫌《い》やかい」  だが、不破はそんな龍之介に構わず続けた。 「嫌やではありません。いずれ、わたしも父上の跡を継ぐつもりでありますから」 「早ェ方《ほう》が仕事を覚えていいぜ」 「すると、橋口譲太郎《はしぐちじようたろう》、西尾左内《にしおさない》、春日《かすが》太郎左衛門《たろうざえもん》と……」  龍之介は知っている顔ぶれをぽつぽつと口にした。 「それに緑川の息子よ」  不破はにやりと笑って言い添えた。 「緑川|直衛《なおえ》……」  龍之介はそう呟いて吐息をついた。緑川直衛は不破の朋輩、緑川平八郎の長男だった。 「連中とは馬が合うか?」  不破はその時だけ心配そうな表情になった。 「橋口さんと春日さんは道場が一緒なので気心は知れております。西尾さんはべつの道場ですが、あの人は剣術よりも学問が好きで、普段でもおとなしいので問題はありませんが……」 「緑川の息子はどうよ」  畳み掛けた不破に龍之介はしばし言葉に窮した様子で黙った。皮肉屋直衛。仲間内ではそう呼ばれている。いつも一人で行動して滅多に仲間には加わらない。父親の平八郎とよく似た性質だが、平八郎は、務め上では不破とよく話をするし、時には軽口も叩く。見た目とは違い、気さくな面もあると龍之介は思っている。 「父上は、緑川の小父さんとは親友なのでしょう?」 「親友?」 「何んでも話し合える間柄ということですよ」 「まあ、そうだな」  しかし、緑川とは務め以外、滅多に行動は共にしない。酒を酌《く》み交わしたことも数えるほどしかない。そういう間柄を親友と呼べるのかどうかはわからなかった。相手が窮地に立たされると協力を惜しまない気持ちはあったが。 「わたしは、直衛さんとは話らしい話をしたことがありません」  龍之介は、言い難《にく》そうに続けた。 「そうか」 「道で会っても、お互い黙ったままです」 「何んだ、そりゃ」  不破は驚いた顔で龍之介を見た。 「別に話すこともありませんから」  龍之介はにべもなく応えた。不破の子供の頃と大違いであった。不破は、たとえ嫌やな相手でも道で出くわした時は会釈ぐらいした。  ところが龍之介はそれもしないらしい。時代が変わったのだろうかと不破は思った。 「ま、取りあえず考えておけ。来年の話をすれば鬼が笑うと言うが、お前ェの一年はあっという間だぜ」 「母上はもう少し剣術の修業を積み、それから学問もよくし、学問所の素読吟味《そどくぎんみ》を受けろとおっしゃっておりました。見習いで出仕するのはその後のことと考えておりましたので、少々とまどっております」 「そいじゃ、その素読吟味を先に受けたらいいじゃねェか」 「素読吟味は十七歳から十九歳までの男子が受けることになっております。昔はもっと年下でも受けられましたが」 「何んだ? お前ェは元服を済ませても、しばらく家でごろごろしているつもりだったのかい」 「ごろごろなどと人聞きの悪い。わたしだって色々やることがあって忙しいんです」 「ふん……」 「しかし、こんなことになっているとは思いも寄りません。父上、明日のことなど、どうなるか知れたものではありませんね」  年寄りじみたことを言った龍之介に不破は思わず噴き出していた。  絵草紙屋をひやかしたが、不破も龍之介もこれといって買いたい物はなかった。しかし、店は役者絵を買う娘達やら、新版の黄表紙《きびようし》、読本《よみほん》を目当てに訪れた客でごった返していた。  龍之介は娘達と背中や肘《ひじ》が触れた途端、真っ赤になった。もう、外に出ましょうと言われて不破も早々に店から出た。  通油町は紋付姿の男達が小僧を従えて年始に行くのが目立った。晴れ着を着た娘達は羽根つきをしている。凧揚《たこあ》げや独楽《こま》回しをしている子供達も多かった。毎年目にする正月の光景である。  不破と龍之介は西両国広小路の方へ自然に足が向いていた。西両国広小路は芝居小屋や水茶屋が軒を並べた賑やかな場所である。その中の蕎麦屋で一服して八丁堀に帰るつもりだった。  広小路に着いて間もなく、二人は酒に酔っている男が三人組の武士に小突かれているのを目にした。正月や祭りなどの人出の多い場所では足を踏んだの踏まれたのと、つまらない喧嘩が起きる。不破はさして興味もない顔でその様子を眺めた。大川沿いにある水茶屋の前は野次馬の人垣ができていた。 「喧嘩でしょうか」  龍之介は人垣の後ろから背伸びして見ると、そっと不破に言った。 「酔っぱらいだろう。放っておけ」  不破は龍之介の袖を引いた。 「でも、殴られた男は血を流しておりますよ」  龍之介は妙に心配する。三人組の武士も素面《しらふ》ではなさそうだが、殴られた男ほどではなかった。三人組は地面に倒れた男になおも蹴りを入れた。男は呻《うめ》いて傍《そば》にあった小石を投げつけるが、逆に男達の怒りを募《つの》らせるだけだった。 「父上、止めて下さい」  龍之介の言葉に不破は渋々人垣の前に出ようとした。その時、水茶屋の主《あるじ》が一瞬早く見世から出て来て、三人組の武士達を如才なくいなした。三人組は誰か止めに入ることを内心で待っていたようだ。路上に|ぺっ《ヽヽ》と唾を吐いて、あっさりと引き上げた。  水茶屋の主は四十がらみの中年の男だった。 「旦那、怪我をしておりやすよ。ささ、こちらへ……幾ら正月でも御酒《ごしゆ》が過ぎますよ。奥様が心配なさいやす」  主は男を宥《なだ》めて床几《しようぎ》に座らせようとした。 「奥様だと? そんな者がどこにいる」  斜《しや》に構えた物言いで男は口を返した。 「お傍にいらっしゃらなくても、旦那のことは案じておりますよ。ささ、取りあえずこちらへ。お着物がすっかり汚れちまいましたぜ」  主が男の腕を取ると茶酌女《ちやくみむすめ》がかいがいしく男の着物の埃《ほこり》を払った。 「わしに構うな。どうだっていい。どうなろうと構やしないのだ」  男は自棄《やけ》のように叫んだ。正月だというのにそそけた頭のままで、羽織も皺《しわ》が寄っている。焦《こ》げ茶《ちや》色の袴の裾は綻《ほころ》びて糸が垂れていた。男は茶酌女の手を払うと、よろよろと米沢町の方へ去って行った。ようやく野次馬の人垣が崩れた。  水茶屋の主は男の後ろ姿をしばらく見ていたが、やがて短い吐息をついて見世の中に入った。 「可哀想……」  茶酌女の呟きが不破の耳に聞こえた。何が可哀想なのだろうと不破は思った。女房が傍にいないせいか、それとも男が殴られたせいだろうか。しかし、様々な客を相手にする茶酌女がその程度のことで男に同情するとも思えなかった。不破は千鳥足で去って行く男の背中をしばらく見つめた。 「ああはなりたくないものです」  龍之介は独り言のように言った。不破はふん、と鼻を鳴らした。それから二人は目についた蕎麦屋に入り、|せいろ《ヽヽヽ》をたぐったが、恐ろしくまずかった。      二  松が取れて江戸はようやく普段の表情を取り戻した。天気のよかった日々が嘘のように、その後、骨身に滲《し》みる寒さが襲って来た。  不破は中間《ちゆうげん》の松助を伴って深川の門前仲町の自身番にやって来た。年が明けてから、まだ土地の岡っ引きの増蔵の顔を見ていなかった。見廻りというより、ちょいと年始の挨拶のつもりがあった。  門前仲町の自身番に入ると、増蔵は火鉢に金網を渡して餅を焼いているところだった。 「旦那、明けましておめでとうございやす。本年も何卒よろしくお願い致しやす」  増蔵は畏《かしこ》まって頭を下げた。不破がうむと顎をしゃくると、その後で「松の字《ヽ》、今年もよろしくな」と、くだけた物言いで増蔵は松助にも声を掛けた。 「旦那、いかがです? 一つ、召し上がりやせんか。正吉《しようきち》の家から餅が届けられたんですよ」  増蔵が勧めると、傍で茶の用意を始めた子分の正吉が照れたように笑った。正吉の家は搗《つ》き米《ごめ》屋をしている。 「正吉、どうだ? 正月は|おこな《ヽヽヽ》と初詣にでも行ったか」  不破はからかうように訊いた。正吉はぽっと顔を赤らめ「へい」と応えた。おこなはお文の家の女中をしていた女である。 「親戚のおばさんの看病があるから、あんまり一緒にいる時間はなかったですけどね」  正吉は少しつまらなそうに続けた。 「そいじゃ、水茶屋の勤めはずっと休んでいるのか」  おこなはお文が伊三次と一緒になってから水茶屋の奉公に出ていたのだ。 「へい。佐内町の姉さんの所にもまだ顔を出していないそうです。もっとも姉さんは腹に子ができて具合が悪いこともあるんで、行っても迷惑だろうからって遠慮しているんです」 「え?」  不破は間抜けな声を上げた。その後で、ぐいっと増蔵を見た。 「お前ェ、知っていたか?」 「へ、へい。この間、伊三次から聞きやした」 「………」 「旦那はご存じなかったんで?」  増蔵は不破の顔色を窺《うかが》いながら恐る恐る訊く。 「知らん」 「伊三次は、茜お嬢さんのことで旦那もお忙しいんで遠慮してお耳に入れていねェんでしょう」  松助は伊三次を庇《かば》うように言った。 「お前ェも知っていたのか?」  不破は呆れたように松助を見た。 「へい……」 「何んで黙っていたのよ」 「何んでって……それはそのう……」 「ああそうかい。おれには知らせたくねェってことか。伊三次が口止めしたのか」 「そんなことはありやせんが、わざわざ言うことでもねェでしょう。所帯を持った夫婦に子ができるのは当たり前ェの話で……」  増蔵は取り繕《つくろ》うように口を挟んだ。  不破は黙っている伊三次を水臭い男だと思った。自分は小者《こもの》以上に伊三次には目を掛けているつもりだが、伊三次は決してそうではないらしい。 「まあいい。奴がそのつもりなら、聞かなかったことにするぜ」  不破が低く言うと、自身番の座敷にいた者は一様に居心地の悪い表情になった。  間《ま》の悪いことに、その時、油障子の外から伊三次の声が聞こえた。正吉が慌てて戸を開けると「今日はやけに冷えるな」と言いながら伊三次は商売道具の入っている台箱を持って入って来た。  不破の姿を認めると「旦那、いらしてたんで。ご苦労様です」と、気さくな言葉を掛けた。 「うむ」  不破は苦虫を噛み潰したような顔である。  松助の微妙な目配せが伊三次に注がれた。 「何かありやしたかい?」 「何もねェ」  不破は憮然として吐き捨てた。 「わたしの方はちょいと気になることがありやして……」  伊三次はそう言って火鉢の前に近づくと、こごえた手を焙《あぶ》り、ついでに焼けた餅を「あち、あち」と言いながら口に放り込んだ。 「気になることとは何んだ」  不破は不機嫌な顔のまま訊いた。 「西両国の広小路で侍の酔っぱらいが毎度、管《くだ》を巻いているんですよ。幾ら何んでも松が取れたし、いつまでも正月の酒に酔っている場合じゃねェと思っておりやした。通り掛かった者にからんで、手が付けられねェんです。まあ、侍の取り締まりは別ですから、わたしも四《し》の五《ご》の言うつもりもありやせんがね。ただ、あっちの縄張りの親分にちょいと話を聞いたんですよ」 「伝八《でんぱち》だな?」  増蔵は訳知り顔で訊いた。 「へい、そうです。伝八親分は広小路の奴等から商売の邪魔だと言われて、侍のいる屋敷に苦情を言いに行ったそうなんですよ。ところが屋敷からは、構わぬ、捨て置け、と応えが返って来ただけで、その侍に小言の一つも言う様子もなかったんだそうです。で、侍は相変わらず毎日、酔っぱらっているざまなんですよ。少しおかしくねェですか」  伊三次の話に不破は龍之介と一緒に見た男の顔を思い出していた。 「その酔っぱらいはどこの藩の者よ」  不破は男の恰好から江戸詰めになっているどこかの藩の家臣と考えていた。 「いえ、その侍は馬喰町《ばくろちよう》の郡代屋敷に使われている手代だそうです」  関八州の全域を支配する代官は、普段は江戸の御用屋敷にいて、検見《けみ》(収穫前に米の作柄を検査すること)等、重要な仕事がある時だけ在所へ赴《おもむ》く。在所には手附《てつけ》、手代が常駐していた。代官は室町時代の地頭《じとう》に代わるものである。「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺《ことわざ》が示すように、年貢の徴収が主たる仕事であるので江戸の人々にとってもあまりよい印象はない。ただでさえ、よく思われない立場の上に手下が酒に酔って狼藉《ろうぜき》を働いては、その内に取り返しのつかない事態にならないかと不破は思った。 「しかし、お武家のことは縄張り違ェだから、伊三次もあまり首を突っ込むな」  増蔵はさり気なく制した。 「へい……」 「何事もなければよいがの」  不破は低い声で言った。その時の不破は増蔵も言ったように、郡代屋敷の手代をどうにかしようという気はさらさらなかった。ただ、男の荒《すさ》んだ表情が妙に気になっていただけである。伊三次から子ができた話は、とうとう出なかった。      三 「そうかい、そういうことだったのかい」  芸妓屋「前田」のお内儀《かみ》は長《なが》煙管《ぎせる》から白い煙を吐き出すと溜め息混じりに言った。  岩田帯を締めたというのに、いつまでもお座敷勤めは気が引けた。お文はとうとうお内儀の|おこう《ヽヽヽ》に事情を打ち明けたのだ。その夜でお座敷を退《の》くつもりだった。 「もっと早く打ち明けて貰いたかったねえ」  おこうはお文の腹の辺りにちらりと目線をくれてから嫌味を言った。 「あいすみません。何しろ、わっちも色々と物入りで、もしもお内儀さんに打ち明けて、お座敷に出ることを止められやしないかと心配していたんですよ」 「そりゃ、止めたよ。腹|ぼて《ヽヽ》の芸者がお座敷に出たんじゃ、客も興ざめだろうよ」 「………」 「それで? これで芸者稼業も仕舞いかえ」 「まだ先のことは……」 「せっかく贔屓《ひいき》の客がついたというのにさ」  おこうは、いかにもいまいましそうだった。しばらく居心地の悪い沈黙が流れた。  だが、おこうは思い掛けないことを言った。 「赤子を産んで身体が元に戻ったら、また出ておくれでないか。なに、今まで通り、忙しい時にしか頼まないからさ」 「よろしいんですか? 子持ちの芸者でも」  お文の表情もぱっと明るくなった。それこそ望むところであった。 「ああ」  おこうはようやく笑顔になって肯いた。 「今まで、このわたいの目を騙《だま》し通したのは大したもんだよ。さすがだね。きっとお前さんは、子を産んでも何事もない顔でお座敷を勤めるだろうよ。お前さんがお座敷にいれば若い妓《こ》に睨《にら》みがきいていい。大変だろうがそうしておくれ。さて、わたいはいつまで待てばいいのかえ」 「産み月は五月でござんす。ふた月は寝ていなければならないので、そうですね、八月の初めになるでしょうか。遅くても九月には」 「あい、承知したよ。だけど、そういうことなら今夜のお座敷はちょいとまずいんじゃないかねえ」  おこうは煙管の雁首《がんくび》を長火鉢の縁《ふち》に打ちつけて思案顔をした。 「わっちじゃ差し障りのあるお客様でござんすか」  今夜は室町《むろまち》の料理茶屋「花菱《はなびし》」に呼ばれていた。花菱は魚河岸を後ろに控えていて、活《い》きのよい魚料理が評判の見世だった。駿河町《するがちよう》の呉服屋、北鞘町《きたざやちよう》の廻船問屋、両替商の主など上客が利用する。祝儀が大いに期待できるというものだ。長い休みに入るのだから今夜はお茶を挽《ひ》きたくなかった。 「いえね、お武家さんなんだよ。ちょいと訳ありのね」  おこうは思わせぶりに言った。 「訳ありとは?」 「花菱のお内儀さんの話じゃ、少々|無体《むたい》をされても仕方がない客だそうだ。二階の座敷を用意しているが、膳を引っ繰り返すのはもとより、床の間の掛け軸や唐紙《からかみ》を破られるのは覚悟しているような口ぶりだった。まあ、後で弁償はして貰うんだろうが、お前さんが怪我でもしたら大変だし……」  どういうことなのかお文にはさっぱりわからなかった。しかし、お座敷で暴れる客は何度も見ていた。それをさらりと躱《かわ》すのも芸者の腕である。 「お客様はお一人でござんすか」 「最初の内はお偉いさんが同席するが、しばらくしたら先に帰るらしい。後は気分よく騒がせてやってくれということだった」 「わっちは構いませんよ。梅奴《うめやつこ》と花扇《かせん》も一緒ですし、何かあったら若い二人に庇って貰いますから」 「本当に大丈夫かえ」  おこうはそれでも心配そうだった。 「大丈夫ですって」  ぽんと景気よく帯を叩いた時、お文の腹の子が驚いたように動いた。  紋付の着物に献上博多の下げ帯、頭には稲穂の簪《かんざし》。正月中の芸者はその恰好でめでたさを表す。  日本橋をお文と若い二人の芸者は連れ立って渡っていた。梅奴は二十歳、花扇は十八歳である。 「今夜の客はちょいと難しいお人らしいよ。いいかえ、気を抜くんじゃないよ。怪我をするかも知れないからね」  お文は後からついて来る二人に念を押した。 「着物を汚されたらどうしよう。新調したばかりなのに……」  梅奴は心配そうだ。 「そういう時は先様から、それ相当のことはして貰えるらしい。問題はご機嫌を損《そこ》ねてほっぺたの一つも張られるかも知れないから、それに気をつけることだよ。|あざ《ヽヽ》になったら事《こと》だ」 「おお怖い」  花扇は恐ろしそうに首を竦《すく》めた。 「姐さん、その時、あたいは真っ先に逃げますからね」  慌てて花扇は言い添える。梅奴は思い出したように|ぷっ《ヽヽ》と噴いた。 「あんた、逃げ足は速いからね。手を切った間夫《まぶ》が未練がましく茶屋の前で待ち伏せしても、こっそり裏から逃げてさ、間夫が気づいて追い駆けたが、あんたはひと足先に前田に戻って戸をぴしゃりさ。あたしはあんたの足につくづく感心したものだよ」  梅奴はそんなことを言う。 「そうなのかえ」  お文は悪戯《いたずら》っぽい表情で訊いた。 「あたい、昔から足は速かったの。もしも男だったら飛脚になりたかったよう」 「女の飛脚も色っぽくていいじゃないか。今からでも遅くはないよ。商売替えしたらどうだえ」 「そいじゃ、それっ!」  花扇は裾を膝上までたくし上げ、日本橋を走る。お文と梅奴は声を上げて笑った。  室町の花菱は大通りに面していた。数寄屋《すきや》造りの二階建ての見世である。軒行灯《のきあんどん》が煌々《こうこう》と灯って通り過ぎる人の気をそそっていた。 「ごめん下さいまし。この度はお世話になります。前田から参りました」  お文は花菱の若い者に小腰《こごし》を屈《かが》めて言った。 「お待ちしておりやした。ささ、お二階へどうぞ」  半纏姿の若い者は緊張した表情で応えた。  お文も背筋を伸ばして衣紋《えもん》を取り繕った。  内所《ないしよ》(経営者の居室)から花菱のお内儀が慌てて出て来ると「桃太郎姐さん、前田のお内儀さんから聞いているだろうねえ」と心細い声で言った。 「あい、よっく承知しておりますから」 「あんただけが頼りだ。よろしく頼むよ。酔い潰れて寝てくれたら御《おん》の字なんだが」  花菱のお内儀の口ぶりにも難儀な様子が感じられた。お文は梅奴と花扇に目配せして二階に通じる階段をゆっくり上がって行った。  階下は客の声も賑やかに聞こえていたが、二階はお文達が呼ばれた座敷しか客がいないようだ。しんとした様子がお文をさらに緊張させた。 「お待たせ致しました。桃太郎でござんす」  お文は障子の前で座ると声を掛けた。 「ささ、お入り」  中から男の声がした。障子を開けると、座敷には二人の武士が座っていた。膳がすでに出され、かなり前から酒が入っている様子だった。腰高障子の窓を背にしているのが問題の客らしい。羊羹《ようかん》色に褪《さ》めた紋付羽織に焦げ茶の袴を着けている。首を落として俯《うつむ》いていた。床の間を背にしている五十がらみの男は、その上司になるのだろう。  梅奴と花扇は察しよく、俯いている男の両側に座った。 「本日はお声を掛けていただきありがとう存じます」  お文は丁寧に三つ指を突いて頭を下げた。 「桃太郎姐さんに、こちらは?」  上司らしいのが愛想のいい顔で訊く。 「梅奴でござんす」 「あたいは花扇でございますよ」  花扇はひょうきんな顔を拵《こしら》えて挨拶した。 「拙者は有本庄兵衛《ありもとしようべえ》と申す。そちらは高木茂助《たかぎもすけ》と申してな、馬喰町の郡代屋敷に奉公しておる者じゃ」 「お代官様ァ」  梅奴は大袈裟な声を上げた。 「これこれ、代官ではない。代官の下におる者じゃ」  有本庄兵衛は慌てて梅奴を制した。 「いいじゃござんせんか。今宵はお代官様になり代わって賑やかにやりましょうよ」  梅奴は最初から調子も高く焚《た》きつける。有本は笑ったが、もう一人は俯いたままだった。 「さて、拙者もきれいな姐さん達と、もう少し遊んでいたいところだが、何かと野暮用がござっての、この辺でご無礼させていただくとしよう」 「あらあ、旦那、野暮用なんて本当に野暮ですよ。もう少しいらして下さいな」  花扇は腰を上げ掛けた有本の袖を引いて引き留めた。有本はその拍子に尻餅を突いた。 「これこれ、無理を言うな。お前達は高木を充分にもてなしておくれ」  有本は花扇の手を払うと障子の前に向かった。把手《とつて》に手を掛けて高木を振り返り、「よいな、高木。もはや了簡するのだぞ」と言った。  高木は有本の顔を見ずにこくりと小さく肯いた。  有本の足音が聞こえなくなると高木はすっと顔を上げて障子を睨んだ。奥歯をぎりぎりと噛み締めている。その表情にお文は肝《きも》が冷えた。 「さあさ、旦那、お偉いさんは退散致しましたから、この先は気楽にやりましょうよ」  梅奴は高木という男に盃を持たせ、銚子の酒を注いだ。  うりゃ、おりゃ、何んと叫んだのか定かにわからない。高木はいきなり奇声を発して盃を障子に投げつけた。白い障子紙に酒の飛沫が散った。三人の芸者は一瞬、言葉を失った。  お文は気がおかしいのではないかと思った。 「御酒は飲むもので打ち水するもんじゃありませんよ」  お文は低い声で言った。 「うるさい! 貴様に何がわかる。芸者風情が余計な口を叩くな」  男は甲走《かんばし》った声でお文を睨んだ。  男は梅奴から銚子を取り上げて手酌で丼に酒を注ぐとひと息で飲んだ。梅奴と花扇は表情を堅くして男を見つめていた。 「何かお偉いさんに因果を含められたようでござんすね」  お文が続けると、貴様に何がわかる、男はまた、同じ台詞を繰り返した。 「このお座敷じゃ、旦那は好き放題なさってもお構いなしということでござんした。お気の済むまでごろついたらよござんすよ」 「なに!」 「わっち等はたかが芸者。ひと晩のお花をいただければ四の五の言うこともありませんよ」  男はまた丼に酒を注いだが、いきなり中身をお文に引っ掛けた。 「何するんだ!」  そう声を上げたのは梅奴だった。 「梅奴、いいんだよ。これも納得ずくで、わっちは覚悟を決めて来たんだから」  深川芸者の喜久壽《きくじゆ》から贈られた紋付に酒のシミができるのは仕方がなかったが、その場ではどうすることもできない。お文は懐から手拭いを出して濡れた着物をそっと拭《ぬぐ》った。 「皆、わしの機嫌を取る。その通り、何をしてもお構いなしよ。たとえ貴様等の細い首を絞め上げたところで、わしは罪に問われることもない」 「やだ……」  花扇は呟いて、そろそろと座敷の外に逃げ出す算段を始めた。その様子を察して男は花扇に床の間の花瓶を投げつけた。花扇は悲鳴を上げて廊下に飛び出した。花瓶の水がこぼれ、その中を梅の枝が泳いだ。梅奴も座ったまま後退《あとずさ》りをした。 「貴様もか!」  男の怒鳴り声と同時に梅奴は転がるように座敷を出た。 「姐さん、早く」  梅奴は恐怖を感じてお文にも逃げろと急《せ》かした。お文もよほど座敷を出ようかと思ったが、激情を晴らした男が肩で息をしながら俯く様子がなぜか気になった。 「旦那、お命だけはどうぞ堪忍して下さいましな」  お文はそう言って手拭いで水のこぼれた畳を拭った。 「姐さん!」  苛立った梅奴の声が続いた。 「梅奴、わっちは今夜が最後のお座敷だ。たとえどんなお客様であろうとも、途中で尻尾を巻いて逃げ出したんじゃ、この桃太郎姐さんの名がすたる。お前は内所で待っておいで。ああ、その前に雑巾を持って来ておくれな」  お文はそう言うと、男に向き直った。 「今夜が最後だと?」  男はお文の言葉に怪訝そうに訊いた。 「あい、ちょいと訳がござんして、当分、お座敷は休ませていただくんですよ」  お文はふわりと笑った。その笑顔に誘われたように男の表情も少し弛《ゆる》んだ。 「最後の座敷でなければ貴様もほうほうの態《てい》で逃げたであろう」 「あいィ〜」  お文はしり上がりで茶化すように応えた。 「最後の座敷とな? 最後だから……」  そう呟いて、男は突然|咽《むせ》んだ。最後という言葉が男にこたえている様子だった。お文は、そのまま男を泣かせるままにしていた。障子が細めに開いて花菱のお内儀が雑巾をそっと差し出した。お文は目顔で肯いた。  お内儀は「頼むよ」というように両手を合わせて拝んだ。  お文は男が泣いている間に、散らかった辺りを手早く片づけた。 「女、貴様は惚れた男と別れたことがあるか」  男は俯いて眼を拭いながら訊いた。 「え?」 「あるのかないのか訊いておるのだ」 「そりゃあ、この年でござんすから別れの一つや二つはございますよ」 「相手は旦那か、それとも間夫か」 「………」 「答えろ、女」 「桃太郎と呼んで下さいましな。間夫でござんすよ」  お文は伊三次と半年ほど会わなかった時のことを思い出して言った。 「その時、どうやって諦めをつけた」  男は顔を上げてまじまじとお文を見た。何かそこに男の深い事情がありそうだった。男はお文の答えに自分の答えを見つけたかったのかも知れない。 「諦めることなんざできませんでしたよ」  お文は吐息混じりに呟いて有本の膳から盃を取り上げ、男の手に持たせた。男の眼はお文に注がれたままだ。お文は銚子の酒を注ぎ、「心底惚れていたなら、そんなに簡単に諦めることなんてできませんよ。わっちは今でも諦め切れずにいるんですよ」と言った。  挙句《あげく》に女房になりましたと余計なことは言わなかった。 「毎日、どのように暮らせばよいのだ。教えてくれ」  男は切羽詰まった声を上げた。 「悩むなと言ったところで無理でござんしょう。忘れろと言われたところで気がつけば相手のことを思い出しておりますよ。旦那、どうせなら、とことん相手のことを思い続けて飽きが来るのを待つしかありませんよ。差し当たって旦那にはお務めがあるんですから、お務めを一所懸命に励むことですよ。身体を動かしていれば、まだしも気が紛れますからね」  そう言ったが、男は納得する様子もなかった。 「女房も時が経《た》てばわしのことを忘れられるというのか……」  男は独り言のように呟いた。忘れられぬ相手というのは男の妻のことを指しているのだろうか。ただの惚れたはれたではないことをようやくお文は察した。 「不躾《ぶしつけ》を承知でお訊ね致しますよ。旦那の奥様はそのう……他に好《す》いたお方ができたんでございますか」  お文が訊いた途端、「無礼者!」と男は叫んだ。男の膝が膳の端にぶつかり、皿小鉢が耳障りな音をたてた。 「申し訳ござんせん。そんなことは旦那の奥様に限ってある訳がない。だけど旦那、このままでは、わっちは気になって仕方がありませんよ。後生だ、旦那。どうぞ仔細を聞かせて下《くだ》っし」  お文は頭を下げて男に縋《すが》った。 「聞いてどうする」 「どうするって、それを言っちゃお仕舞いですよ。当分、芸者稼業を退くつもりのわっちが、今宵、旦那と会ったのも何かのご縁。きっと神さんは旦那の話をお聞きしろと、わっちをこのお座敷に差し向けたのでしょうよ」  お文の言葉に男はしばらく返事をしなかった。何やら思案しているふうだった。 「有本様は旦那に了簡しろとおっしゃいましたよね。何を了簡するんでござんしょう。それは奥様と関わりのあることなんでござんすか」  男はお文の視線を避けるように眼を閉じた。その閉じた眼から一筋、涙が伝った。 「本日、わしは女房に去《さ》り|状を《じよう》書いた」  男が掠《かす》れた声でぽつりと言った。お文の胸の動悸が高くなった。お文は掌で胸を押さえて男の口許をじっと見た。 「書きたくて書いた訳ではない。そうせねば、女房はわしを諦め切れぬからだ」 「旦那はもちろん、そうなさりたくはなかったのでしょうね」 「いかにも……」  男は苦汁を飲んだような表情のまま応える。 「奥様は今、どちらに」 「江戸におる。だが、二人の間は在所と離れ離れになっていた頃よりはるかに遠い。遠過ぎる。もはや女房はわしの手の届かぬ所へ行ってしまうのだ」 「手の、届かぬ所?」  お文は男の言葉をゆっくりと鸚鵡《おうむ》返しにした。 「わしの家は上州で村役人を務めておった。もともとは百姓よ」  男は遠くを見るような眼でぽつぽつと語り始めた。男の顎に赤い面皰《にきび》が浮き出ていた。最初は四十近くかと思っていたが、存外に若く、まだ二十五だという。お文よりも年下であった。  高木茂助の家は代官の陣屋の近くにあり、祖父の代から手代に抱えられ、名字・帯刀を許された。農民から武士になったということになるが、代官の下で働く小間使いで、いわゆる武士とは趣《おもむき》を異にした。陣屋に詰めて様々な雑事をこなし手当を貰っていた。  家族が先祖代々の田畑を耕し、米や野菜を作る暮らしは茂助が手代に抱えられても変わらなかった。代官屋敷の手代も世襲制で、茂助は父親から家督を譲られると当然のように手代の仕事に就いたのだ。  三年前、茂助は嫁を迎えた。親戚筋の娘で子供の頃から知っている七歳年下の|おたき《ヽヽヽ》だった。さして美人ではないが笑った顔に愛嬌のある女だった。働き者で茂助の家の嫁になってからも、くるくるとよく働き、舅《しゆうと》、姑《しゆうとめ》にも孝養を尽くした。茂助との夫婦仲もよく、平凡だがまずまずの暮らしを送っていたという。  ところが一昨年、茂助の村は日照《ひで》りのせいで稲の半分以上が駄目になるという不幸に見舞われた。  手代の手当を貰っているとはいえ、茂助の家も打撃を受け、そのままでは翌年の種籾《たねもみ》を用意することも覚つかない状態に陥ってしまった。  茂助の上司は同情して、一年限りでおたきが女中奉公できるよう便宜を計らってくれた。そうすれば種籾どころか、ある程度の実入りも期待できる。ただの女中奉公ではなく、江戸城の大奥への奉公だった。  百姓の嫁に女中奉公など無理だと茂助は最初断った。上司は、おぬしは今、曲がりなりにも士籍をいただく者、奉公に上がるために不足はないと応えたという。たとえ下働きの仕事でも、城内の女中は武家から選ばれる仕来たりであった。  おたきは家のためなら喜んで奉公に上がると言った。一年の間、離れ離れになるのは寂しいが、家のためなら仕方がない。茂助は渋々承知したのである。  こうしておたきは御半下《おはした》として江戸城の大奥に上がった。御半下は大奥で下働きの者を指す。 「大奥など大したものでございますねえ。御台所《みだいどころ》様や他の奥方様が|きれえ《ヽヽヽ》なお着物を着てお暮らしなんでござんしょう?」  お文は溜め息混じりに言った。大奥がどういう所なのか、もちろんお文には想像すらできない。 「時々、手紙が参ってな、元気で暮らしておるから心配するなと書いておった」 「奥様は手紙をお書きになれるんですか」  お文は感心した声になった。 「奉公に上がる前にわしが教えたのだ」 「そうですか……」 「女房は湯殿係を仰せつかった。上様がお成《な》りの時は湯を運び、背中をお流しする。湯から上がれば浴衣を何枚も用意して、上様の身体がすっかり乾くまで浴衣を取り替えるそうだ。女房は上様のお世話ができることを光栄に思っておった。それが……」  将軍|家斉《いえなり》はある日、傍の者に茂助の妻の名を訊ねたという。それは暗黙の内に、おたきが気に入ったので閨《ねや》に呼べということになるらしい。大奥の年寄《としより》・村山《むらやま》は心得て、その旨《むね》をおたきに伝えた。おたきは驚いて言下に拒否した。  村山は大いなる出世じゃ、ありがたくお受けしろと諭したがおたきは首を縦に振らなかった。村山はその理由を強く問いただすと、自分には夫がいるという答えが返って来た。村山はさっそくおたきの夫が上州|岩鼻《いわはな》の陣屋にいる代官の手代、高木茂助であることを突き留めたのである。  代官屋敷の上司はもちろん、家族からもおたきを諦めろと茂助は懇々と諭された。  茂助は、もはや自分が否と言える状況ではないことを悟った。上司の手前、よろしくお頼み申しますと頭を下げたが、茂助の胸中は荒れに荒れた。その頃から酒に溺れるようになったのだ。茂助の切ない心をさらに掻き立てたのは、おたきが茂助からはっきりしたことを聞かない限り、たとえお上の命令であろうとも素直に従うつもりはないと頑《かたくな》に拒んでいることだった。  茂助の上司は去り状を書くことを茂助に強要した。そのために茂助は江戸へ呼び出され馬喰町の郡代屋敷の御長屋《おながや》に逗留していたのだ。 「何んとお慰めしてよいのか……」  お文は襦袢《じゆばん》の袖口で眼を拭った。 「わしが何をした、え?」  茂助はお文の手首を強い力で掴み、揺すった。 「旦那は何も悪くありませんよ」  そう応えると茂助はお文の手首を乱暴に放した。掴まれた手首をお文はそっと摩《さす》った。 「桃太郎、女房はこれで得心してくれると思うか」 「さあ……でも、上様が相手では是非もありませんでしょう。何も下働きの亭主持ちのおなごに乙なお気持ちにならずとも、上様には掃いて捨てるほどおなごがいらっしゃるのに……偉いお方は、わっち等とは心持ちが違うのでしょうね」  お文は深い溜め息をついて言った。茂助はお文に心情を打ち明けて少しは気が晴れたのだろうか。それから黙って盃の酒を口に運ぶだけだった。半刻後、茂助は座敷で横になったまま眠り込んだ。  お文はそっと座敷を出た。花菱のお内儀に、風邪を引くといけないから何か上に掛ける物を用意してくれと言い残すのを忘れなかった。  稲荷新道《いなりしんみち》の前田に戻り、おこうに挨拶してからお文は外に出た。さすが桃太郎姐さん、の褒《ほ》め言葉にもお文の気持ちは浮き立たなかった。  冬の夜空がお文の頭上に拡がっている。その夜空に金剛石のような星が瞬《またた》いていた。 「ああ、きれえ……」  呟いたお文の吐く息が白い。茂助という男はこれで諦めをつけたのだろうか。いや、それよりもおたきという女房だ。  昔、深川の養母が亡くなった時、浄心寺の僧侶が説教した言葉がふっと甦《よみがえ》った。  この世には様々な苦がある。生《しよう》・老《ろう》・病《びよう》・死《し》も苦であるが、その他に愛別離苦《あいべつりく》、怨憎会苦《おんぞうえく》、求不得苦《ぐふとくく》、五蘊盛苦《ごうんじようく》の四苦が人にとっては堪え難い苦であるという。  愛しい者と別れなければならない苦、憎しみ恨みと出会う苦、求めて得られない苦、人の身体を造っている五つのものが盛んに欲望を燃やす苦。その中で一番苦しいものは愛別離苦だとお文は思う。おたきと茂助は今、その苦に苛《さいな》まれているのだ。 (旦那は悪くありませんよ)  お文は茂助に言った言葉を胸の内でもう一度呟いた。      四  月が変わり、奉行所の月番が南町に移った。不破友之進は夕方になると息子の龍之介と一緒に市中を散歩するのが度々《たびたび》だった。  茜が泣くと、男達はどうすることもできない。不破が癇《かん》を立てて「やかましい、静かにしろ」と怒鳴れば、茜はさらに火が点《つ》いたように泣きわめいた。 「赤子に怒鳴っても仕方がありませんよ」  いなみから苦笑混じりに窘《たしな》められた。龍之介も赤ん坊の頃は大層泣いたというものの、それから十年以上も経った今では、あやし方も忘れている。なぜか茜は不破の声を聞くと泣くのである。ただし、龍之介が言葉を掛ければ茜は喜んで笑い声も立てる。不破は、それもおもしろくなかった。 「頑固なお父上だということを茜はすでに承知しているのでしょう」  いなみはからかうように言った。 「毎日、背中に皹《ひび》を切らして市中を歩き廻っているというのに、家に戻ってからも外へ追い出されるのは敵《かな》わぬ」  不破は愚痴をこぼす。しかし、傍にいる龍之介は案外、楽しそうだった。頭巾を被り、懐手をして歩く二人の恰好は瓜二つだった。  その日、二人は柳原《やなぎはら》の土手を歩いていた。  筋違橋《すじかいばし》から浅草橋に至る土手は柳の樹《き》が植えられている。ためにそこは柳原土手と呼ばれている。柳原土手は古着屋が軒を連ねる所だった。 「ここに古着屋を構える店はどれほどの数になるのですか」  龍之介は歩きながら不破に訊ねた。およそ十余町もの土手沿いに、びっしりと薦掛《こもが》けの店が並んでいる。 「四、五百はあるんじゃねェか? こそ泥を働いた科人《とがにん》は盗んだ物を古着屋か質屋に曲げる。そん時はここにある店を一軒ずつ当たるのよ。精が切れる仕事だ」 「でも、父上はその仕事をご自分ではなさらず、小者に託すのですね」  龍之介は訳知り顔で言う。 「岡っ引きはともかく、下っ引きになると、ごろつきが揃っておる。昔は手前ェも何等かの咎《とが》めを受けて奉行所の世話になった連中だ。蛇の道はへびよ。そういう者を手先に使えば調べも早く片がつくからだ」 「弥八さんや伊三次さんもそうなのですか」  龍之介は無邪気に訊く。 「弥八は留蔵の養子だから、親父を手伝っているだけだ」 「じゃあ、伊三次さんは?」 「あいつはおれの頭を結う内に小者をするようになったんだ」  不破は自分と伊三次との詳しい事情を龍之介にまだ話すつもりはなかった。龍之介がそれを理解するには若過ぎると思うからだ。 「父上は伊三次さんに十手を渡さないのですか」 「あいつが今のままでいいと言ったからよ。縄張りだの何んだのが面倒なんだろう」 「縄張りを持てば、その中から幾らかの実入りもあるでしょうに」  龍之介はすでに岡っ引きの仕事を朧気《おぼろげ》ながら理解しているらしい。 「あいつは、銭の要らねェ男らしい」  不破は皮肉に吐き捨てた。 「あッ」  龍之介は突然、前方を見つめて驚いた声を上げた。 「どうした?」 「緑川の小父さんと、直衛さんが……」 「ん?」  眼を細めて浅草橋の方角を見ると、土手に人垣ができて、そこに小走りに駆けつける緑川父子の姿があった。 「何かあったのでしょうか」  不破は龍之介の問い掛けに応えず、まっすぐにそちらへ向かった。  人垣の中に男が一人倒れていた。その男は正月に龍之介と西両国広小路で見た、あの酔っぱらいだった。男の首には細紐が絡みついていた。 「平八郎」  不破はしゃがんでいる緑川の背中に声を掛けた。緑川は振り向くと顎をしゃくった。 「どうした」 「首縊《くびくく》りをしようとしていたらしい」  緑川は半ば呆れたような顔で応えた。男は幸い意識があるようで、己れの醜態を晒したことを恥じてむせんでいる。 「武士なら切腹すればよいものを」  直衛が聞こえるか聞こえないかの声で言った。直衛は、くっきりとした二重瞼で鼻も高い。背丈はすでに父親を超えていた。黙っている内は男前にも見えるが、父親譲りで、時に皮肉な表情をする。その時もそうだった。 「この人は郡代屋敷の手代さんですよ」  人垣の中から商人ふうの男が言った。 「おっと……」  緑川は低く呟く。男のことを知っているのか知らないのか、曖昧《あいまい》な表情だ。だが緑川は、すぐに不破に意見を求めた。 「自身番に連れて行くという訳にも参らぬな。友之進、どうする」 「郡代屋敷にお送りすればよい。幸い、意識ははっきりしておる。お手前、歩くことはできますかな」  不破は男を見下ろして慇懃《いんぎん》に訊いた。 「だ、大丈夫でござる。一人で戻りまする」  男は顔を上げてようやく言った。 「しかし、我等の目が届かぬ所でまた事に及んでは困りまする。ここはお屋敷までお送り致す」 「平《ひら》にご容赦のほどを。拙者、もう決してこのようなことを致しませぬ」 「しかし……」 「魔が差しただけでござる。もうもう、ご心配下さるな」  男はそう言うと、自分から首の紐を外し、よろよろとした足取りで歩き出した。後に残された者はしばらく、その様子を心配そうに眺めていた。やがて人垣も崩れ、柳原土手は古着屋と客がやり取りするいつもの風景に戻った。 「珍しいではないか。息子と連れ立って歩くなど」  不破は男の姿が見えなくなると、緑川をからかうように言った。 「お前こそ何んだ」  緑川はすぐに応酬した。 「おれか? おれは赤ん坊がぎゃあぎゃあわめくので、おちおち家にもおられぬ。晩飯前に散歩するのが日課になった」 「おれは直衛にお見廻りに連れてゆけと言われて、支障のない限り、渋々同行させておるのだ」 「ほう、もはや見習いの下準備か。感心なものだの、直衛」  不破は直衛に気さくな言葉を掛けた。 「同心は経験がすべてでございます。来年、一から始めたところで間に合いませぬ。他より抜きんでるためには今から修業しなければならぬと考えております」  利発そうな言葉が返って来た。 「聞いたか、龍之介。お前ェも直衛を見習った方がいいぜ」  そう言った不破に、龍之介は低く「放っといて下さい」と応えた。 「龍之介は剣術が達者だから楽しみだの」  緑川は龍之介を持ち上げるように口を挟んだ。 「春の紅白試合には、拙者は龍之介に勝ちまする」  直衛は豪気に言い放った。龍之介はそんな直衛を鋭い眼で睨んだが何も言わなかった。 「ところで平八郎。あの郡代屋敷の手代のことを知っておるのか」  浅草橋の方向に足並みを揃えて歩きながら不破は訊いた。 「ふん、郡代屋敷の連中も甘いものだ。あの男の言いなりにさせておる。たかが女房を取り上げるのに何んの雑作《ぞうさ》がいるものか」 「取り上げる?」  不破は解せない表情で緑川の横顔を見た。 「あの男の女房は大奥の御半下をしているそうだ。そこで上様のお目に留まったらしい」 「………」 「あの男は女房を差し出す代わりに二百石を賜るらしい。大した出世よ」  緑川はさすがに隠密廻りの同心である。すっかり事情を把握していた。不破はそれで合点がいった。西両国広小路で通行人に絡んでいたのも、昼日中から酒に酔っていたのも、男の行状を知らせても郡代屋敷がお構いなしということだったのも。 「どうもなあ……」  不破は頭巾の間に指を入れて小鬢《こびん》を掻いた。 「同情しておるのか? おれだったら熨斗《のし》をつけて女房を差し出すがな」  緑川は皮肉な口調で言う。その後で深川の喜久壽を後釜に据えるのか……喉まで出掛かったが、直衛と龍之介の手前、堪えた。 「龍之介、来年、直衛となかよくやってくれ」  緑川は後ろを振り返り、その時だけ父親の顔になって龍之介に言った。龍之介はちらりと直衛を見てから「はい」と、殊勝に応えた。      五  お座敷がなくなったお文は廻り髪結いの女房として食事の仕度をしたり、生まれて来る赤ん坊の産着の用意をしたりして毎日を送るようになった。この頃、お文がいるせいで伊三次の帰りも幾分、早くなったような気がする。 「お内儀さん……」  小僧の九兵衛《くへえ》が買い物から戻ると、台所にいたお文に声を掛けた。 「ご苦労さんだったね。言われた物はちゃんと買って来たかえ」 「へい。途中で前田の女中さんに会いまして、手紙を言付《ことづ》かって来ました」 「手紙?」  付け文を渡されるような相手も思いつかない。お文は怪訝な顔で渡された手紙を拡げた。  しかし、漢字混じりの手紙は要領を得なかった。 「どういうことなんだろうねえ。わっちはさっぱり訳がわからないよ」 「お内儀さんは郡代屋敷のお役人さんのお座敷に出たことがあるそうですね」 「ああ」  あの男だ。お文はすぐに思い出した。 「そのお役人さんから届けられたそうですよ。室町の花菱から前田に廻って来たんです」  手紙の内容がよく理解できなかったお文は九兵衛に留守番をさせて近所の箸屋「翁屋」の暖簾《のれん》をくぐった。主の八兵衛に手紙を読んで貰うためだった。  八兵衛は帳場にお文を招じ入れると眼鏡を取り出し、経《きよう》でも唱えるような抑揚をつけて手紙を読んでくれた。お文はじっと耳を傾けた。手紙は先日の無礼を平に謝る言葉から始まっていた。  男は妻に去り状を書いた後も悩みに悩み抜き、一時は死を覚悟したこともあったという。  しかし、自分が死んでは妻も後を追うような気がして、じっと辛抱の毎日を送っているらしい。  妻のおたきは去り状を手にしても茂助から直接話を聞かない限り、離縁は承服できない様子であった。大奥の年寄も郡代屋敷の代官も頭を抱え、とうとう二人を引き合わせる機会を作った。入谷《いりや》の鬼子母神《きしもじん》の境内で茂助は妻のおたきに今生《こんじよう》の別れを告げるらしい。おたきの側には大奥の年寄や御殿女中がつき添い、茂助には有本という花菱の座敷で見た上司がつき添うらしい。だが、茂助は自分の感情を押さえ切れず、また無体な行動に出ることを心底恐れていた。ついては遠くから眺めるだけでいいから、お文に鬼子母神まで来て貰えないかということだった。その日時は二月の晦日《みそか》の八つ(午後二時)頃から夕方までの間であった。 「何やら|いわく《ヽヽヽ》のある手紙ですな」  読み終えて八兵衛は低く呟いた。眼鏡を掛けた八兵衛の顔は、いつもの分別臭い表情ではなく、何やら愛嬌が感じられる。それをからかう余裕もなく、お文は俯いた。 「お文さんを頼りにしているご様子です。力になって差し上げてはどうですか」  八兵衛は困惑したお文にそう言った。 「わっちが傍《そば》にいたからって、何んの役にも立ちませんよ。お座敷で一度会った切りのお客様ですからね」 「それでも、お客様はお文さんに見守られているだけで落ち着きましょう」 「旦那、わっちはこの身体です。とても入谷まで行けませんよ」 「それもそうですなあ」  八兵衛は膨らみの目立って来たお文の腹の辺りに遠慮がちに視線を向けて相槌を打った。 「それじゃ、ご亭主に代わりに行って貰ってはどうです? 必ず行くからと知らせて置けば、向こうは安心するでしょう。たとえお文さんの姿が見えなくてもお客様はどこかで見ていると思って下さいます」 「………」  伊三次に訳を話すのが苦痛だった。まともに話を聞いてくれるかどうかもわからない。 「夫婦は相身《あいみ》たがい、そう言うじゃございませんか」  八兵衛はお文を励ますように言った。 「ありがとう存じます。お手数を掛けました。少し考えてみますよ」  お文はそう言って翁屋を出た。  晩飯の後、お文はむつきを縫う。九兵衛の母親が届けてくれた古い浴衣は、ほどいてきれいに洗ってある。むつきは古い生地のものほど肌触りがよく、赤ん坊には最適らしい。  九兵衛の母親は近所の女房達にも声を掛けて揃えてくれたという。そういう親切がお文にはありがたかった。が、何十枚もむつきに仕立てるのは骨だった。お文は毎日、五枚ずつ縫うようにしている。  伊三次はお文の横で商売道具の大小様々な櫛を丁寧に空拭きしていた。 「お前さん、晦日は忙しいだろうねえ」  お文は手を動かしながら伊三次に訊いた。 「晦日はかきいれ時よ。深川の信濃屋《しなのや》の旦那にも呼ばれているし、それが終わったら本所にも行かにゃならねェ」 「ご苦労さんだねえ」  労をねぎらったつもりだが、お文の口調には溜め息が混じった。 「何んか、用事があったか」  伊三次は手を動かしながら訊く。 「いえね、ちょいと……」 「話してみな。仕事のついでに寄れる所なら行くぜ」 「入谷の鬼子母神さんにねえ、行けるかえ?」 「………」  返事をしないのは大儀だということだ。無理もない。入谷は浅草寺から田圃を抜けた寺町の一郭にある。すぐ傍は上野のお山である。 「何んでまた、そんな所に……」  しばらくしてから伊三次が口を開いた。 「この前、お座敷を掛けてくれたお客様に呼び出されたのさ。だけどわっちは無理だからお前さんに代わりに行って貰いたいのさ」 「代わりに行ってどうするのよ。おれは桃太郎の亭主でござんす、女房は来られません。お生憎《あいにく》でござんすね、と言うのか」 「なにを言うことやら。一丁前に焼き餅を焼いているつもりかえ」  お文は悪戯っぽい表情で笑った。それからぽつぽつと高木茂助の話を伊三次にした。  郡代屋敷の手代のことが出て、伊三次は眉を上げた。 「その侍なら知っているぜ。西両国の広小路でも酔っぱらって管を巻いていたからな。その内にお務めを首にならないかと余計な心配をしていたもんだ。そうかい……そんな事情があったのかい」  伊三次は磨き上げた櫛を注意深く見ながら応えた。 「もはや関わりのないお人だと思っていても、知らん顔をしたままじゃ、わっちの気が済まないんだよ。あの男がちゃんと|けり《ヽヽ》をつけられるかどうか見届けたいのさ」 「お節介は相変わらずだな」 「どうしてなんだろうねえ。わっちの所に、わざわざ厄介を抱えた者が寄って来るような気がするよ。わっちはできれば、そんなことは知らずにいたい。所詮、他人様のことだもの。だが、皆、わっちに訳を聞かせたがる」 「お前ェが聞かせてくれと頼むからよ」  伊三次はお文の気性を呑み込んでいるように言う。その通りだった。聞かせてほしいと頼むのはいつも自分だった。その結果、相手の深い事情に身を詰まらせるのだ。だが、聞かずにいては何も手につかない。つくづく因果な性分であるとお文は思う。 「いいぜ。ちょいと遠いがお前ェの気の済むようにしてやらァ」 「本当かい」  お文の顔が輝いた。 「さあさあ始まった。この金棒引《かなぼうひ》き」  伊三次は茶化すように笑った。      六  その日、伊三次はいつものように八丁堀の不破の組屋敷に行き、不破の頭を結った。  床上げしたばかりのいなみは茜を腕に抱えて不破が頭を結う様子を眺めていた。ふっくらと丸くなったいなみの顔は肌が透き通るように美しかった。 「月が変われば今度ァ、北町の月番だ。ちょいと打ち合わせてェことがあるから、お前ェ、昼から増蔵の所で待ってな」  不破はそんなことを言う。伊三次は慌てた。  午前中、大急ぎで丁場《ちようば》(得意先)を片づけ、入谷に向かうつもりだったからだ。 「あいすみやせん。今日はちょっと用事がありますもんで」 「なに、さほど手間は取らせねェ。ほんの小半刻《こはんとき》(約三十分)のことだ。弥八も深川に呼ぶつもりだ」 「旦那、そいじゃ、夜になってから、こちらへ伺いやす」  伊三次は元結《もつとい》を結びつけながら言う。 「それほど大事な用があるのかい」  不破の口調に怒気が含まれた。いなみは少し心配そうに二人を見た。 「あいすみません。どうしても手が離せねェことができましたんで」  ぱちりと髷《まげ》の刷毛先《はけさき》を鋏《はさみ》で揃えると、伊三次は気後れした顔で言った。 「そいつは何よ」  問い詰める不破に伊三次は口ごもりながら、「そのう……女房の用事でちょいと」と応えた。 「おきゃあがれ、唐変木! 脂下《やにさが》っている場合じゃねェぞ」  怒鳴った不破に茜が|ぎゃっ《ヽヽヽ》と泣いた。おお、よしよし。いなみは立ち上がって茜をあやし始めた。伊三次は膝を掴み、唇を噛み締めて不破の怒鳴り声を聞いていた。 「全く、とんでもねェ腑抜けだ。やい、手前ェいつからそうなったよ。小間物屋で化粧《けわい》の品物でも買って来いと頼まれたってか」  不破はさも肝が焼けた様子で続けた。 「幾ら何んでも、そんなことで旦那の用事を断りはしやせんよ」  伊三次は皮肉な調子で口を返した。 「そいじゃ、何んだ。え?」 「入谷の鬼子母神で例の郡代屋敷の手代が女房と最後の話をすることになったんです。女房は上様のお傍に上がるんだそうです。あの男はお文の客なんですよ。お座敷で身の上話をされたんでしょう。お文の奴、やけに同情して……おまけにその男から、当日は遠くから眺めるだけでいいから傍にいてほしいと手紙が来ていたんでさァ」  不破は何も言わなかったが懐手をして考え込む顔になった。 「伊三次さん、お文さんはおいでになれないのですか」  いなみは怪訝な表情で訊いた。伊三次はちらりと不破の顔を見てから「奥様、うちの奴は今、これなんですよ」と、腹の前で弧を描いて見せた。 「まあ……」  いなみの顔が驚きから喜びに変わった。不破はふん、と鼻を鳴らした。 「そいつを早く言え、ってんだ」 「あいすみやせん」 「どれ、そういうことなら打ち合わせはやめだ。おれも一緒に行く」 「え?」  伊三次は驚いた顔になった。 「なに、その手代については、あれから色々あってな、おれも案じていたところだ」 「さいですか」 「時刻はいつだ」 「へい……昼過ぎから夕方までの間です」 「よし、わかった。おおい、龍之介、本日は入谷行きだ」  不破は立ち上がり、龍之介の部屋に向かって大声を張り上げた。茜がまたしても激しく泣いた。金棒引きがもう一人、いや二人。伊三次は内心で独りごちた。金棒引きは世間の噂好きを指す言葉である。  入谷の鬼子母神は浅草寺から続く道をだらだら歩いた寺町にある。途中、名高い吉原が見えた。浅草寺を抜ければ周りはすべて田圃である。  不破が鬼子母神を祀《まつ》る真源院《しんげんいん》に龍之介と着いた時、伊三次はまだ来ていなかった。郡代屋敷の手代の姿もなかった。  境内にはすすき細工《ざいく》の木菟《みみずく》を売る男が寒そうに煙管を吹かしていた。 「鬼子母神は|雑司ヶ谷《ぞうしがや》にもありますね」  龍之介は物知りなところを不破に見せた。  待っている間に不破は納所《なつしよ》から鬼子母神のお札を二枚買った。一枚はいなみに、もう一枚はお文へやるつもりであった。鬼子母神は安産と育児の守り神でもある。  ぺたぺたと雪駄の足音が聞こえ、伊三次が寒そうな顔をして現れた。どこかに預けたのか台箱は持っていなかった。 「まだ現れやせんかい」  伊三次は境内を見回して言う。  赤い毛氈《もうせん》の掛かった床几《しようぎ》を置いた茶店が目についた。 「あそこで話をするんでしょうかねえ」 「恐らくな」 「そいじゃ、目についても邪魔になりますから、わたし達はそちらにしますか」と、納所の横にある松の樹が植えてある一隅を指差した。  三人がそちらに移動してほどなく、高木茂助と有本庄兵衛が現れた。茂助が床几に座ると、有本は店の奥に何やら声を掛けた。  茂助は真新しい紋付に縹《はなだ》色の袴を着けていた。 「今日ばかりは、ぱりっとした恰好をしているな」  不破は茂助の姿を見て言う。髪もきれいに結い上げられて、まるで別人のようであった。  やがて乗り物が二挺、しずしずと境内に入って来た。駕籠《かご》持ちの中間の周りには御殿女中が三人、つき添っていた。乗り物は座っていた男から少し離れた場所で止まった。御殿女中がその前にしゃがむと、まず年増の女が現れ、それからもう一つの乗り物から紅花色の着物を纏《まと》った若い女が出て来た。 「父上、きれいな人ですね」  龍之介は感嘆の声を上げた。 「あの器量じゃな……」  無理もないと不破は言いたかったのだろう。小柄な身体で、ちんまりとした顔が何んとも愛くるしい。元は百姓の娘でも、そうして衣裳を調え、髪を結い、化粧を施せば見違えるように美しくなる。将軍家斉は誰よりも、そこに気づいていたから、おたきに目をつけたのかも知れない。  おたきが茂助の傍に間を置いて座り、お互い見つめ合う様子を伴の者は表情のない顔でじっと見ていた。 「気が利かねェことで。ちょっとの間、座を外したらいいでしょうにねえ」  伊三次は囁くように不破に言った。しかし、そういう訳には行かなかった。茂助は妻であったその女に、もはや手を触れることもできないのだ。二人は言葉もなく、ただ涙をこぼすばかりであった。見つめる伊三次も思わず貰い泣きしそうになった。  二人の間に、とうとう言葉はなかった。  小半刻(約三十分)後、年寄村山が「もう……」と言うと、つき添いの女中がおたきの傍に進んだ。  おたきはそれを潮に立ち上がり、深々と茂助に頭を下げた。茂助もそれに応えるように頭を垂れた。  乗り物は来た時と同じように静かに境内を離れて行った。有本は茶店に支払いを済ませると「さ、行くか? 気が済んだな」と言った。茂助は返事の代わりに、ぐすりと水洟《みずばな》を啜った。  肩を落として去って行く茂助の後ろ姿を見つめながら、伊三次はやり切れない溜め息をついた。 「坊ちゃん、あのきれえな女の人は一緒にいた男のかみさんだったんですぜ」  伊三次は龍之介に喋った。何か言わなければ、その時の重苦しい気持ちに耐えられそうもなかった。 「それで、あの二人はどうなるのですか」 「かみさんがあんまりきれえなもんだから、奉公していたお屋敷のお殿さんに目を付けられ、横取りされてしまったんでさァ」 「伊三次、やめろ」  不破が制した。龍之介にわかることではなかった。 「わたしが奉行所に務めるようになったら、そういう事情にも向き合うことになるのでしょうか」  だが、龍之介は存外に物分かりのよいことを言った。 「そうです、そうです、坊ちゃん。こんなことはざらにあることですよ。ですからね、そん時は眼を逸《そ》らしちゃいけやせんぜ。この度は、事件にはなりやせんでしたが、町家でこんな事情が起きた日にゃ決まって刃傷沙汰《にんじようざた》になっておりやすからね」  伊三次は噛んで含めるように龍之介に言った。 「ざらにあるか、こんな事」  不破は皮肉な調子で口を挟んだ。龍之介は眼で父親を制した。 「本日は|いかい《ヽヽヽ》勉強になりました。伊三次さん、ありがとうございます」  龍之介は畏まって伊三次に頭を下げた。 「おれに礼はねェのかい?」  不破は不服そうに訊いた。龍之介は薄青い空を見上げてから、ぐいっと唇を噛んだ。 「畏《おそ》れ入谷の鬼子母神でい!」  やけのように叫んだ龍之介に、不破と伊三次は呆気《あつけ》に取られて顔を見合わせた。 [#改ページ]   夢 お ぼ ろ      一  桜の季節は、いつもより心寂しい気持ちになると伊三次は思う。それは花見に浮かれている人々を尻目に、自分が廻り髪結いの仕事と裏の仕事に追われるせいではなかった。  この季節は桜の名所に出かけられなくても、市中を歩く道々、薄紅《うすべに》色の花が咲いているのを見ることができた。つかの間、足を止め、伊三次は艶《あで》やかな花に見惚《みと》れた。心寂しい気分を醸し出すのは、その色のせいだろうか。  いや、同じ薄紅なら梅の花にも同じ気持ちを抱《いだ》いていいはずだ。梅の花は一つ一つの花びらがくっきりと際立って眼に残る。だが、桜は花びらと花びらが溶け合い、真綿のようにほんわりと塊《かたまり》になって見える。そのほんわりした風情が淡い寂しさとなって伊三次を包むのだろうか。わからない。  新しく贔屓《ひいき》の客となった箸問屋の主《あるじ》の話によると、桜は甘い樹液を出すので毛虫が多いそうだ。隣家から苦情が出たために腹を立て、樹齢百年を数える見事な桜の樹《き》を根元からばっさり伐《き》ってしまった友人がいるという。  伐ってしまうと人は勝手なもので、「何もそこまで。手前どもの庭に掛からない程度に枝を払うだけでよかったのに」と、今度は心底残念そうな口ぶりで隣家の者は話したそうだ。 「毛虫は迷惑だが花は眺めたい。あちらを立てたら、こちらが立たない。うまくいかないものです。まあ、世の中の理屈と同じようなものですなあ」  箸問屋翁屋の主の八兵衛はそう言って鷹揚に笑った。  伊三次も八兵衛の言葉に相槌を打ったが、八兵衛の頭を結い終えて外へ出た時、溜め息が出た。あちらを立てたら、こちらが立たないという言葉がしみじみこたえたからだ。  自分は曲がりなりにも所帯を持ち、裏店《うらだな》ではなく一軒家の住人となった。もうすぐ子供が生まれる。頼りにならないが弟子も一人いる。  しかし、以前とは比べものにならないほど暮らしの掛かりが生じていることも事実だった。  この頃感じる侘しさは、懐に余裕のないせいもあるのだろう。お文がお座敷を休むとなったら、なおさら。だが、面と向かって、それをお文には言えなかった。  伊三次は翁屋を出ると家には寄らず、そのまま京橋の自身番へ足を向けた。もうすぐ中食《ちゆうじき》の時刻であるが、腹の大きいお文は身体がずい分、辛そうである。突然戻って仕度をさせるのが可哀想だった。普段でも滅多に昼に戻ることはなかった。大店の中には昼飯がつく所も珍しくない。これを「顎付《あごつ》き」と呼んで上得意の客の意味を持たせている。  伊三次のその日の丁場(得意先)に顎付きは含まれていなかったので、途中、蕎麦屋にでも寄ろうかと算段していた。  京橋の大根河岸の近くまで来ると、新築の普請現場が目についた。その辺は|やっちゃ場《ヽヽヽヽば》(青物市場)になっていたから、建て主もそれに関係している者かと伊三次は思った。  間口は狭いが住みやすそうな家である。父親が大工をしていたので、伊三次も普請現場の前は素通りができない。どんな家になるのか、しばし頭を巡らしてしまう。その時も立ち止まって様子を眺めた。  ふと、その内、足場で小気味よく玄能《げんのう》を振っている男に見覚えがあると思った。誰だったろうと考えていると、男の方も伊三次に気づき、「おう」と親し気に顎をしゃくった。  四十がらみの小柄な男である。伊三次はまだ思い出せなくて曖昧な表情をしていたが、その男は傍《そば》にいた手許《てもと》(見習い)らしい若い者に「ちょいと、知り合いが来たんで、話をしてくらァ」と、声を掛けた。  男は身軽な足取りで足場から下りると、愛嬌のある笑顔で伊三次に近づいた。 「てェした久しぶりだなあ。元気でいたか」 「へ、へい」  伊三次は仕方なく肯く。 「何んだ、おれのことは忘れっちまったのかい。こいつァ、一生の不覚というものだ」 「一生の不覚」という言葉が出て伊三次は俄《にわ》かに思い当たった。死んだ父親と半年ばかり一緒に仕事をしたことのある朝太郎《あさたろう》だった。いや、朝太郎と言うより「御大《おんたい》」という渾名《あだな》が伊三次の脳裏を掠《かす》めた。太っ腹な性格なので仲間からそう呼ばれていた。 「御大……」 「おうよ。おれの顔を忘れちゃ一生の不覚だぜ」  朝太郎は黄ばんだ歯を見せて愉快そうに笑った。日に何度も一生の不覚を口にする。床柱の寸法を間違えたら、大工にとって、それは一生の不覚にもなろう。朝太郎が腹立ちまぎれに高価な床柱を鋸《のこ》で伐り刻み、薪《まき》にしてしまったのは、今でも仲間内で語り草となっている。あの時から朝太郎の一生の不覚が始まったのだ。伊三次の父親はおもしろい男だと言っていた。  床板に一分《いちぶ》の隙間ができても、野地板《のじいた》の寸法をほんの少し違えても一生の不覚なのだ。  それは朝太郎の大工としての矜持なのだと伊三次は思っているが、幾ら何んでも話が大袈裟だ。一生の不覚がそんなにあってはたまらない。  父親が生きていた頃、朝太郎は所帯を持っていたが、まだ二十代の若者だった。その頃から腕がいいと評判だった。義理人情にも厚く、伊三次の父親の葬儀には真っ先に駆けつけ、呆然としていた母親の代わりに、あれこれと世話を焼き、半年後にその母親も亡くなると、残された伊三次が不憫《ふびん》だと涙をこぼしてくれた。 「所帯を持ったというじゃねェか。お園《その》さんから聞いたよ」  朝太郎は拡げられている筵《むしろ》に伊三次を促すと腰の莨《たばこ》入れから煙管《きせる》を取り出した。一服|点《つ》け、白い煙を吐き出しながら言う。 「へい」 「水臭ェじゃねェか。それならそうと祝儀の一つも出したによ」 「なに、そんな気遣いはいらねェですよ。別に祝言を挙げた訳じゃなし」 「それでもよ、お前ェの父っつぁんには世話になったことだし、知らぬ振りもしたくねェ」 「ありがとうございやす。お気持ちだけいただきやす」 「たまにゃ、おれの家にも寄りな。お園さんの所にゃ顔を出すこともあるんだろ?」 「へい」  朝太郎の住まいは姉の住んでいる炭町の近くの柳町にあった。大所帯で、女房と三人の子供達の他、女房の母親、朝太郎の叔母が一緒に住んでいる。朝太郎が自分の稼ぎで大家族を養っているだけでも大したものだと思う。  最初は仕舞屋《しもたや》を買ったのだが、家族が増えるにつれ増築を重ね、今では元の家の体裁を留《とど》めていない。おまけに子供達が拾ってきた猫が五、六匹もいて、家の中は片づく暇もないとこぼす。朝太郎の人柄を慕って手許の若い者も飯時《めしどき》になると訪れるので、なおさら賑やかなのだ。 「時々よ、おれァ、お前ェの父っつぁんみてェに足場から落ちることを考えると、ぞっとすらァ。うちの奴等はどうなるのかってね」 「息子さんが二人もいるから心配ねェでしょう」  伊三次はそろそろ二十歳になる二人の息子のことを持ち出し、安心させるように言った。  一番下が確か娘だった。 「なあに。あいつ等は考げェが甘ェのよ。おれの所じゃ我儘《わがまま》になるから、よその親方に面倒を見て貰っているが、雀の涙ほどの喰《く》い扶持《ぶち》を入れて大威張りよ。嬶《かか》ァに弁当をこさえさせて、でかい面《つら》して飯を喰ってよ、おれの酒までくすね飲みしてらァ」  朝太郎の話に伊三次は声を上げて笑った。 「それでも御大が稼ぐから甘えられるんですよ。御大の腕は評判ですからね」 「なあに、てェしたことはねェよ」  伊三次の褒《ほ》め言葉に朝太郎は嬉しそうに鼻をうごめかした。 「だがよ、職人の内じゃ大工の手間賃が一番高けェと言っても高が知れてらァ。富突《とみつ》きで一発当てて、借家の二、三軒も持つようでなきゃ、先の暮らしは真っ暗闇よ。ほ、あと十年もしたら、おれなんざ、お払い箱だ」 「しかし、富突きなんざ、そうそうあてにできるもんじゃねェでしょう」  伊三次は柔らかく朝太郎の言葉を否定した。 「そうでもねェぜ、伊三。この現場の建て主は富突きで一の富を当てたんだぜ」  朝太郎は伊三次の反応を窺いながら続ける。  一の富は百両。寺に二割の奉納金を取られるとしても八十両が手許に残る。濡れ手で粟の大金を手にした者が家を建てているのだ。全く、江戸には様々な者がいる。 「八十両で家が建つんですかい」  伊三次は恐る恐る訊いた。 「ふん、大工の倅《せがれ》らしくもねェ。こんな安普請の家ならおつりがくらァ」  今は不景気なので家の普請をする者が少ない。子供を育てるより安く上がると世間では言われているそうだ。売り家も多い割には買い手がつかない。そう言えば、有名な戯作者《げさくしや》が住んでいた神田明神下の庭つきの住まいが僅か四十二両二分で売りに出されたと翁屋八兵衛が言っていたのを伊三次は思い出した。  それに比べたら間口二間の平屋の家など、新築と言ってもさほどの掛かりにはならないのだろう。  だが、おおかたの江戸の人々は裏店住まいに甘んじている。僅かな店賃も滞《とどこお》りがちな者が少なくない。家を建てるなど、庶民には夢のまた夢であった。 「ここの建て主が富突きに当たったのは初めてじゃねェんだぜ。前にも十両、二十両と花籤《はなくじ》を当てているんだ。そいで、今度ァ、一の富だ。豪勢に家をおっ建てる気になったんだろう」  朝太郎が得意そうに続けると、伊三次は驚きで眼を瞠《みは》った。 「よほど運が強い人なんですね。何か当たるコツがあるんですかい」  伊三次は意気込んで訊く。 「うん、ある」  朝太郎は重々しい口調で応えた。 「そいつァ、どんな」 「毎度、富札を買うこと」 「………」  呆気に取られたような顔になった伊三次に朝太郎は甲高い笑い声を上げた。 「当たり前ェだろうが。富札を買わなきゃ当たらねェ理屈だ」 「そりゃそうですが」  伊三次は富突きに当たる|まじない《ヽヽヽヽ》のようなものがあるのかと思ったので、朝太郎の言葉に鼻白んだ。  江戸府内の札所で富札は売られている。しかし、一枚一分と高直《こうじき》である。早い話、大工の手間賃の三日分にも相当する。一攫《いつかく》千金の夢を見るにしても、おいそれと手が出ない額である。 「お前ェ、やけにしけた面をしていたぜ。運だめしに、一つ買ってみるといいんだ」  朝太郎は伊三次をそそのかすように言った。 「おれは駄目ですよ。昔っから籤運が悪りィですから」 「何言いやがる。運は手前ェで開くもんだ。ほれ、見な。おれも一枚、買ったぜ」  朝太郎は懐の紙入れから大事そうに富札の控えを出して見せた。長さ五寸、幅一寸五分ほどの淡黄色の摺《す》り物には合印《あいじるし》、番号、発行した所の印、富突きが開かれる日時が記されていた。朝太郎の富札は両国の回向院《えこういん》のものだった。 「御大はこれに一分も出したんですかい」  そう訊くと「出すか、そんなに」、間髪を容《い》れず吐き捨てた。 「だ、だって、富札は一分と聞いておりやすよ」 「この頃はもっと安く売り出しているんだ。こいつは二朱よ」  二朱なら一分の半分で銭に換算すれば五百文。伊三次にとっても、さほど無理な金額ではない。 「一の富なんざ、でかいことは言わねェ。花籤でも掠《かす》らねェものかと思っているのよ。こちとら米の飯には事欠かねェが、遊ぶ銭となると不足だ。なあ、伊三、男ならたまに小《こ》ぎれいな着物を着て、芝居見物して、うまいもん喰って、うまい酒を飲んで、そいで吉原をひやかしに行きてェと思うだろう?」  朝太郎は夢見るように言った。富突きの一の富は、もちろん大当たりだが、次に二の富、三の富と金額が減ってゆき、百番目の突き留めで、また大当たりとなる。だから富札を買った者は最後まで気が抜けないのだ。一の富や突き留めは本籤と呼ばれているが、本籤の一番違いは両袖と言い、本籤の当たり番号と合印が異なる物は印違いと称して幾らかの当たり金が出た。これ等は本籤に対して花籤と呼ばれていた。朝太郎は花籤を企《たくら》んでいる様子だった。 「なあに、建て主が手前ェのことを、ついてるついてると毎度自慢するもんだから肝が焼けてな、おれも一発当てて見返してやりたくなったのよ」 「建て主さんは何をしている人なんですか」  一の富を当てるような強運の持ち主に伊三次は心が惹かれた。 「ふん、元は、けちな青物売りよ。この頃は商売もうっちゃって、家族総出で浮かれているわな。まあ、年内、遊んで暮らしても余裕はあるんだろうが」 「さいですか」  思わぬ大金が転がり込んだのだから無理もない。しかし、家を建てたのはともかく、商売がなおざりでは、いずれ困ることにならないかと他人事ながら心配になった。 「まあ、こいつが当たったら、お前ェの商売に仕舞いをつけてやるぜ」  朝太郎は吉原の遊女を一日借り切る「仕舞い」という言葉を持ち出して景気をつけた。 「御大、人の頭は一つですぜ。小半刻(約三十分)もありゃ十分ですよ。仕舞いにするってェのは、ちょいと無理がありまさァ」 「そうか。こいつァ、一生の不覚だったな」  朝太郎はいつもの台詞をまた呟いた。      二  南八丁堀のあさり河岸の道場で試合を終えた不破龍之介は庭に設《しつら》えてある井戸の前で肌脱ぎになって汗を拭っていた。その日は道場の紅白試合が行われた。昨年は三人を抜いたが、今年は一人に留まった。しかし、龍之介は負けの判定が出された二つ目の試合に納得できなかった。  相手は父親の友人である緑川平八郎の息子の直衛だった。龍之介より三寸も背が高い直衛に試合は終始押され気味だった。直衛は果敢に間合を詰め、龍之介の隙を狙ってきた。  大上段に構えた直衛が気合いもろとも龍之介の面を突こうとした刹那、龍之介は後退《あとずさ》りしながらも直衛の小手を打った。  それで勝ったと思い、気を弛めた拍子に面を取られた。軍配は直衛に挙がった。審判は二人いて、直衛の後方で見ていた師範代の片岡美雨《かたおかみう》は龍之介の勝ちを示す赤旗を挙げたが、床の間の近くにいた同じく師範代の伊能甚左衛門《いのうじんざえもん》は白旗を挙げた。判定が分かれた時は師匠の日川大膳《ひかわたいぜん》が勝敗を決める。師匠は直衛の勝ちとした。得意そうに自分を見下した直衛の顔が憎らしかった。ただ、負けても悔しいのに、その日は誤った判定のために敗れたのだ。しかし、異を唱えるのは男らしくない。  挨拶を終えて武者窓のある壁際に座った龍之介に、朋輩《ほうばい》の春日《かすが》太郎左衛門《たろうざえもん》は「勝ったのはお前の方だ」と、囁いてくれた。それが僅かな救いだった。しかし、家に戻り、母親に本日の首尾を報告することを考えると心は重かった。 「龍之介……」  自分の名を呼ばれて振り向くと、渡り廊下から片岡美雨がこちらを見ていた。美雨は吟味方与力、片岡|郁馬《いくま》の娘だった。昨年まで大名屋敷に奉公していたが、今は自宅に戻り、一日おきに道場で少年達に稽古をつけていた。  大名屋敷に奉公したのも、その剣法の腕を買われてのことだった。女子ながら鏡心明智流《きようしんめいちりゆう》、柳生新陰《やぎゆうしんかげ》流、卜伝《ぼくでん》流と様々な剣法を学び、また、薙刀《なぎなた》の名人でもあった。いつも若衆姿で歩く美雨は気性も男まさりであった。 「まっすぐ帰るのか」  美雨は気さくな口調で訊いた。 「は、はい。そのつもりでおりましたが」  龍之介は慌てて着物を引っ掛けると応えた。 「ならば一緒に帰ろう。少しお前に話がある」  自分を慰めるつもりなのだろうか。女に情けを掛けられたくないと龍之介は内心で思った。  龍之介はいつも一緒に行動する友人達に断って先に帰って貰った。友人達は美雨に惑わされるなと、下卑《げび》た冗談を言った。直衛もその後から続いたが、龍之介には何んの言葉もなかった。しかし、自分に向けた直衛の表情は得意気だった。悔しさが胸に拡がった。  美雨は着物と袴の上に黒い無紋の羽織を重ねて玄関に現れた。玄関前には下男が待っていた。たとい剣法の達人でも、若い娘の外出には女中か下男がつき添うのが習い。 「爺や、先に帰っておれ」  美雨は下男に命じた。下男は自分の家で雇っている作蔵《さくぞう》と同じぐらいの年恰好である。 「ですが、お嬢様……」  下男は渋い表情をした。 「龍之介が一緒だから心配はない。こやつの腕がいいのは爺やも知っておろう」 「それは存じておりやすが、坊ちゃんはまだ年若ですので何かあっては旦那様に叱られやす」 「年若だからどうした。龍之介は来年、見習いで奉行所に上がるのだぞ。その物言いは無礼であろう。それとも、|おれ《ヽヽ》が龍之介と、どこぞにしけ込むとでも思っておるのか」 「お嬢様!」  下男は眼を剥《む》いて声を荒らげた。 「なに、冗談だ」  美雨はさらりと躱《かわ》した。 「乾《いぬい》様とのお話が持ち上がっておるのですから、何とぞ短慮はお控え下せェやし」  下男は美雨に念を押す。どうやら、美雨に縁談があるらしいと龍之介は察した。乾とは年番方与力、乾|勘五《かんご》右衛門《えもん》の息子のことだろう。  確か息子が三人ほどいたはずだ。美雨は片岡家の跡取り娘なので婿を迎えなければならない。縁談の相手は次男か三男だろう。三男は美雨より年下だから、次男の方か。 「くどい!」  美雨は癇を立てた。 「お爺さん、まだ陽の目もありますので、大丈夫ですよ。わたしが美雨先生をお送り致します。ご心配なさらぬように」  龍之介は下男を柔らかい口調で諭した。下男はようやく肯くと、首を俯《うつむ》けた恰好でとぼとぼと戻って行った。 「子供の頃からいる爺やだから、おれのことを孫娘のように思うておる。それはありがたいが小言が多くて閉口する」  美雨が小さくなった下男の後ろ姿に視線を向けて言った。 「若い娘の一人歩きは危険なものです」 「子供のくせに大人びたことを言うの」 「美雨先生はさきほど、わたしのことを持ち上げたではありませんか。お爺さんがいなくなると、途端に扱《こ》き下ろすのですか」 「いや、そういうつもりはないが……それより本日の試合のことだ。お前、負けたとは思うておらぬだろう」  ゆっくりと歩みを進めながら美雨が訊いた。  龍之介はすぐに返事ができなかった。 「遠慮はいらぬ。はっきり答えよ」 「はい……負けたとは思っておりません」  龍之介は渋々、低い声で言った。 「お前が小手を打ったところを伊能先生は気づかれなかった。仕方がない。運が悪かったと思って諦めるのだ」 「はい……」 「これが真剣だったら、直衛は手首を斬られて使い物にならぬ身体になったやも知れぬ」 「ですが、直衛さんはそれを認めませんでした。卑怯です」 「言うな。お前は家に戻って優しい母上に、これこれこうですと告げるのか? あの母上は頭に血を昇らせて道場へ文句を言いに来るぞ。それこそ、末代までの恥となろう」 「まさか」 「いや、お前の母上は、普段はおとなしいが、竹刀を持っては人が変わる。おれは子供の頃、母上の稽古ぶりを見ているから、ようく知っているのだ。不破殿と祝言を挙げられて間もなくの頃だったが、熱心に道場へ通《かよ》っておられた。日川先生も大層可愛がっていらした。だが、周りの者は不破殿がよく稽古を許すと半ば呆れていたがの」 「母は強かったのでしょうか」  龍之介は足許に視線を落として訊いた。 「ああ、強かった。だが、不破殿と対戦してはどうかの。不破殿は型や流儀を無視した喧嘩剣法ゆえ……」  美雨はそう言って茶化すように笑った。 「母上の父親は日川先生の師匠だったそうだ。お前にとっては母方の祖父《じい》様だ。お前の前でいうのも何んだが、大層弱い師匠での、他流試合では全戦全敗だったそうな」  そんな話は初めて聞いた。 「ところが不思議なことに弟子がよく集まったという。指南の方法が頭抜《ずぬ》けてよかったからだ。お前の祖父様に指南されたら、皆、剣法の達人になった。さしずめ、その筆頭は不破殿……いや、母上かのう」 「褒められているのか、けなされているのかわかりません。美雨先生、わたしに何がおっしゃりたいのですか」  龍之介はきッと顔を上げて美雨に訊いた。  小麦色の肌はつるりと光って、しみ一つない。当たり前に武家の子女の恰好をしていれば美形の娘になるのに、と龍之介は思う。美雨のことは両親の話にも度々出てきた。十九歳と年頃なのに、さっぱり縁談に耳を貸そうとしないからだ。片岡郁馬は両親の仲人であり、龍之介が元服を迎える時は烏帽子親《えぼしおや》になる人物でもあった。奉行所は二十五騎の与力がいて、その配下に同心が所属していると言うものの、定廻りと隠密廻りだけは同心だけでお役目を果たしていた。不破家と片岡家が懇意にしているのは、務め柄よりも、そういう昔の経緯《いきさつ》のせいであった。 「間合を詰められ、後退りしながらも渾身の一刀を瞬時に放った……龍之介、あれは極意の技であるぞ」 「………」 「おれでもそうそうやれぬ。まあ、本日の紅白試合は試合に勝って勝負に負けたというものだろう。いよいよ励め」  美雨はつかの間、真顔になって龍之介に檄《げき》を飛ばした。口調は荒いが美雨はさり気なく龍之介の気持ちを慮《おもんぱか》っていた。龍之介は鬱陶しいものが少し晴れたような気がした。 「あれ、龍之介、九鬼《くき》様の桜が見事だぞ」  丹波綾部藩、九鬼式部少輔の上屋敷前に差し掛かった時、美雨は少し昂《たかぶ》った声を上げた。  つかの間、十九歳の娘の顔になったと龍之介は感じた。白い漆喰《しつくい》塀の上に視線を向ければ、満開の桜が通りまで枝を伸ばしていた。 「美雨先生と思わぬ花見になりました」  龍之介は冗談混じりに言った。美雨は喉の奥でくすりと笑って、「そうだの」と低く応えた。美雨は桜に興をそそられたのだろうか、低く謡《うたい》のようなものを口ずさみ始めた。 「それは何んですか」  龍之介が訊くと美雨は二、三度、切れ長の眼をしばたたいた。我に返ったような表情だった。 「おれが奉公していた屋敷の殿様は謡がお好きでの、御酒《ごしゆ》を召し上がった時は必ず唸っておられた。最初は退屈であったが、毎度聞かされている内に耳に残り、知らずに自分でも唸るようになったのだ。龍之介、このことは他言無用だぞ」  美雨は照れた顔で念を押した。 「もう少し、聞かせて下さい」  そう言うと美雨は黙った。 「恥ずかしいのですか」  龍之介は美雨の顔色を窺いながら訊いた。  美雨は曖昧な表情で笑うと、小さく肯いた。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ※[#歌記号、unicode303d]我を頼めて来《こ》ぬ男 角《つの》三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ 霜雪霰《しもゆきあられ》降る水田《みずた》の鳥となれ さて足冷たかれ 池の萍《うきくさ》となりねかし と揺《ゆ》りか(こ)ふ揺り揺られ歩《あり》け [#ここで字下げ終わり]  謡の類は龍之介も何度か聞いたことがあったが、言葉が明瞭ではないので、よくわからなかった。しかし、その時は哀切な節に乗せられた言葉がしんみりと龍之介の胸に響いた。 「これはあれですね、思いを寄せている男が自分を振り向いてくれないから、自棄《やけ》を起こしている女の歌ですね」 「自棄?」 「ええ……違いましたでしょうか」 「お前は生意気な子供だの」 「もう、子供ではありません」 「ほう、それではもはや、好いたおなごがいるのか」 「おりません!」  龍之介はその時だけ、むっとして声を荒らげた。それがおかしいと、美雨は声を上げて笑った。 「恋の一つも知らねば、大人とは言えぬぞ」  それでは美雨は誰に恋しているというのだろうか。しかし、龍之介は、さすがにそれは訊けなかった。  美雨は九鬼家の桜にうっとりとした眼を向け、また、我を頼めて来ぬ男を、低く口ずさんでいた。  乾勘五右衛門の息子との縁談に美雨は乗り気ではないのだろう。しかし、美雨にふさわしい相手となると、十三歳の龍之介には見当もつかなかった。      三  奉行所から退出して来た不破友之進は着替えを済ませると、慌ただしくどこかへ出かけた。普段着の恰好だったので、さほど遠くではないと思ったが、その夜はかなり遅くなってから帰宅したようだ。龍之介は床に就いていたので父親がいつ戻ったのかわからなかった。  翌朝の不破は二日酔いのせいもあって、ひどく機嫌が悪かった。 「旦那、御酒が残っておりやすよ」  髪結いの伊三次の声が朝飯を食べている龍之介の耳にも聞こえた。 「伊丹の酒があるから飲みに来いと乾様からご招待があったのよ。おれは気軽に出かけて行ったら、どうしてどうして、酒の代わりに難題を押しつけられちまった」  不破はくさくさした表情で吐き捨てる。 「何か手に余る事件でも任されたんですかい」 「ふん、いっそ、その方がましだ」 「………」 「痛ェぞ、このう! そっとやれ、そっと」 「あいすみやせん」  二人のやり取りを、いなみは茶の間で茜に乳をやりながら聞いていたが、しばらくすると、「龍之介、お父上に梅茶を差し上げて下さいな」と、納豆飯を掻き込んでいる息子に言った。 「奥さま、お茶ならあたしが」  女中の|おたつ《ヽヽヽ》が慌てて口を挟んだ。いなみは目顔でおたつを制した。 「お父上は、あなたにお話があると思いますので……」  いなみはそんなことを言った。紅白試合で緑川直衛に敗れたと告げて以来、いなみは自分に対して少しよそよそしいと龍之介は思う。  龍之介は納豆飯でぬるぬるした唇を舌先で舐めながら、縁側に梅茶を運んだ。 「坊ちゃん、お早うございやす」  伊三次は龍之介に朝の挨拶をした。龍之介がやって来て、ほっと安心した顔である。 「お早うございます。本日はよいお天気ですね。父上、二日酔いの妙薬です。どうぞ召し上がって下さい」 「うるせェや」 「それから父上、お役所で申し送りを済ませましたら、松の湯にでも行って、ひとっ風呂浴びた方がいいでしょう」  龍之介がそう続けると、不破はにやりと笑った。 「伊三、聞いたか? 一丁前の口を利いているぜ」 「長年、お父上の二日酔いを見慣れていらっしゃるから、坊ちゃんは心得たもんだ」 「ふん……」  不破は鼻先で皮肉に笑ったが、その後で、少し長い吐息をついた。 「父上、乾様のお宅でどんな話をされたのですか。もしかして美雨先生のことですか」  龍之介の言葉に不破は驚いた表情で振り返った。その頭を伊三次が|くいっ《ヽヽヽ》と前に戻す。 「お前ェ、勘がいいじゃねェか。その通りよ。できそこないの豆腐みてェな面をした息子をよ、どうか片岡様の婿にしてくれと頭ァ、下げられたんだぜ。全く……」  不破はいかにもいまいましそうだった。 「そいつは旦那が一番苦手のことだ」  伊三次も同調した。 「だろう?」 「美雨先生はこの縁談にはあまり乗り気ではありません」  龍之介は湯呑を口にした不破に言った。 「お前ェ、どうしてわかる」 「どうしてって、ただそんな気がするだけです。でも、美雨先生のご両親は賛成なさっているようですね」 「あの娘に並の縁談はおいそれとは来ねェ。皆、あの娘を恐ろしがって及び腰だ。何も彼《か》も承知で婿になるという乾の息子は、片岡様にすればありがた山のほととぎすだろうよ」 「旦那の奥様も|やっとう《ヽヽヽヽ》の心得がありやすが、普段はそんなこと、おくびにも出しやせん。それに比べて片岡様のお嬢様は見るからに勇ましい。ちょいと難しい問題ですね」  髷《まげ》の刷毛先を握り鋏で揃えると、伊三次は不破に手鏡を差し出した。不破はそれをちらりと眺めると、肩の手拭いを取って伊三次に押しつけた。 「なあ、龍之介。手ェ、貸してくれよ」  不破は甘えるような口調で言った。 「わたしにどうしろと」 「美雨先生、どうぞ、乾|監物《けんもつ》殿と祝言を挙げて下され、これ、この通りですと……」 「馬鹿馬鹿しい」 「何が馬鹿馬鹿しいだ。おれは真面目に言っているんだぞ」 「どなたか、美雨先生のお気持ちを親身に聞いて下さる方に頼むべきですよ」 「そんな者、どこにいる」  不破がぎらりと龍之介を睨んだ時、伊三次は拳《こぶし》で掌を叩いた。 「旦那、奥様がいらっしゃるじゃありやせんか。片岡様のお嬢様は同じ女剣士として奥様のことは尊敬していらっしゃるはずです。ここは一つ、奥様にひと肌脱いでいただいて……」  伊三次の言葉に不破は低く唸った。 「しかし、乾様もあの息子も、片岡様の娘が龍之介を可愛がっている様子だから、龍之介に骨を折ってほしいとおっしゃったんだ」 「坊ちゃんに仲人の真似をさせるんですか。みっともねェ話じゃござんせんか」  伊三次は呆れたように言った。伊三次は自分の気持ちがわかっていると、龍之介は少しほっとなった。 「それもそうだのう。いなみは引き受けてくれるかの」 「縁談を纏《まと》めることより、片岡様のお嬢様のお気持ちを知ることが先でしょう。ああいう方ですから生涯独り身を通されるかも知れませんし」 「しかし、それでは片岡様のお家はどうなる」 「さあて、それはわたしにもわかりやせん。跡継ぎがいらっしゃっても、お武家は潰れる時は潰れますから」  伊三次は訳知り顔で応えた。与力、同心は世襲制ではなかった。一代限りのお抱え席である。とは言うものの、二百石を賜る旗本格の与力は、むざむざと家を潰す考えは毛頭ない。跡目を立て、改めて抱えていただく形で家を存続させるのだ。  龍之介は父親と伊三次の話を聞きながら、なぜか先日美雨が呟いていた謡の言葉が脳裏を掠めていた。頼みに思う男が颯爽と現れたらいいのに、と龍之介は思う。美雨に心惹かれている乾監物は話を聞いているだけでも颯爽としていなかった。  いなみは渋々、片岡家に出かけたようだが、その詳細は龍之介に知らされなかった。道場に出かけて美雨の表情をそれとなく窺っても、稽古をつけてくれる美雨は、いつもの美雨と微塵も変わりはなかった。      四  両国の回向院で富札を買う時、伊三次は思わぬほど胸が高鳴った。まるで買った傍から富突きに当たったような気分になった。  二朱を払って富札を手にすると、備えつけの箱に木札を入れた。控えの札は懐の巾着《きんちやく》に収めた。  大工の朝太郎が言ったように本籤でなくても花籤が当たればいいと思う。もしも、間違って一の富を当てたら、迷うことなく床屋の株を買う。そうでなくても、少し纏まった物を手にした時は暮までの家賃を前払いする。  ずい分、暮らしは楽になるはずだ。お文に新しい着物と帯、ついでに炭町の姉にも。生まれてくる子供にはぴかぴかの晴れ着、小僧の九兵衛には小遣いを張り込む。それから弥八や留蔵、深川の増蔵には料理茶屋でうまい酒と飯を奢る。伊三次の夢は限りなく膨らんだ。  伊三次が木札を箱に入れて回向院から出ようとした時、見覚えのある武士の姿が目についた。それは片岡美雨の縁談相手である乾監物だった。今は与力見習いとして奉行所に出仕しているが、養子の先が見つからない内は決まった仕事も与えられていないということだった。その日は非番でもあったのだろうか。  やり過ごそうかと思ったが、先日の不破の話を聞いているので、伊三次は何気なく声を掛けた。 「旦那、乾の旦那」  声を掛けると監物は少し驚いた顔になった。  できそこないの豆腐みたいな面をしていると不破が言っていたように、男としては色白だった。おまけに全体が太り気味で、まだそんな季節でもないのに額にびっしり汗を浮かべていた。 「お前は……」  存外に澄んだ声が監物の口から洩れた。 「へい。北の奉行所の不破様の所にお世話になっている髪結いでござんす」 「あ、ああ……どうりで見た顔だと思った」 「旦那も富札をお買いになったんでござんすかい」 「うむ……情けない話、次男坊の冷や飯喰いの身の上では小遣いもままならぬのでの」 「一発当てて、豪勢に吉原にでも繰り出す算段ですかい」 「いや、拙者はそういう所は好まぬ」 「こいつァ、ご無礼致しやした」  伊三次は慌てて頭を下げた。 「どれ、喉が渇いた。お前、茶でもつき合わぬか」  監物は、ふと思いついたように伊三次を誘う。これから廻らなければならない丁場があるので伊三次は少し躊躇したが、監物と話をする機会でもあったので、「へい、そいじゃ、お言葉に甘えてお伴させていただきやす」と応えた。  監物は回向院前の広場に出ると、目についた水茶屋の一軒に入った。 「団子はどうだ」  監物は床几に腰を下ろすと気軽に訊ねた。 「へい、ありがとうございやす。酒はからっきし駄目ですが、その代わり、甘めェもんには目がありやせん」 「うむ……」  監物は水茶屋の茶酌女《ちやくみむすめ》に麦湯と団子を二皿注文した。それほど親しくない自分にそうして振る舞ってくれるところは、見掛けに寄らず鷹揚な性格でもあるらしい。奢られたせいでもなかったが、伊三次は次第に監物の印象が変わっていくような気がした。 「旦那はお幾つですか」  茶を啜りながら伊三次は訊いた。年齢の見当が難しい。分別臭い顔のせいだろう。しかし、肉付きのよい頬は皺《しわ》もなく若さが感じられた。 「二十五になる……そうは見えんだろう? 昔から老けた面をしているとよく言われた」 「ご冗談を」  伊三次より四歳年下だった。年が明けて伊三次は二十九になっていた。監物は伊三次に団子を勧めながら、自分も頬張った。好きな物を無心に食べる様子は見ていて気持ちがよかった。監物は酒も甘い物もいける両刀遣いだと冗談めかして言った。 「そろそろ旦那は縁談の話なんぞもございやすんでしょうね」  伊三次はさり気なく例の話に水を向けた。  監物はそう言われて長い吐息をついた。 「拙者は駄目な男だ。学問はぱっとせず、剣術も苦手だ。子供の頃、兄と喧嘩すると、飯を喰うて糞をひり出すしか能のない男と悪態をつかれた……」  監物は自嘲的に応える。 「幾らお兄様でも、そいつはひどい」  伊三次は自然に同情する気持ちになった。  武家の家に生まれた息子は文武両道に優れた者がもてはやされる。噂に聞こえるのは、そういうめざましい活躍をしている者ばかりだ。しかし、世の中には上には上があり、下には下があった。監物は己れに才覚がないのを知っている。無駄に虚勢は張らない。それだけでも謙虚な男だと思う。 「しかし、乾様の息子さんにお生まれになったんですから、やはりご養子に行く先は探さなければなりやせんね」 「拙者、身のほど知らずの夢を見た……どうせ断られるのなら、悔いのない相手にしようと考えたが、やはり無理であったようだ」  どうやら、いなみがでかけて行っても埒《らち》は明かなかったらしい。 「さいですか……」  伊三次の声も沈みがちになった。 「しかし、案ずるな。拙者はさほど落胆しておらぬ。もしも、この富突きが当たったなら、拙者はその人に差し上げたい物があるのだ」 「縁談を断られたのに、ですかい?」 「子供の頃から思いを懸けていた相手だ。しかし、はっきりと断られたからには、どこかで諦めをつけねばならぬ。それで最初で最後のことと念を押して差し上げるつもりだ」 「何を差し上げるんで?」 「|ぎやまん《ヽヽヽヽ》の玉簪《たまかんざし》をのう、差し上げたいのだ。丸くて愛らしい簪をのう……きっとお似合いになる。普段は装うことに興味を示されぬお方ゆえ、せめて晴れ着をお召しになった時に、そっと飾っていただければと思うたのよ」 「………」  その気持ちは伊三次によくわかった。伊三次もお文のために簪を誂《あつら》えたことがある。一度は返されたが、所帯を持ってから、お文はそれをつけてお座敷に出るようになった。結び文の銀の簪だった。監物は流行《はや》りの簪を美雨に贈るつもりなのだ。ぎやまんの簪は、大層高直である。安い物でも一、二両、高い物は限りがない。富突きでも当たらなければ、おいそれと買える代物ではなかった。 「当たるといいですね」  伊三次は夢見るような表情の監物に言った。 「のう髪結い。当日、一緒に回向院に行かぬか」  監物は突然、思いついたように言った。 「いや、しかし……」  伊三次は言葉を濁した。そこまでつき合うつもりは、さらさらなかった。 「お前も富札を買ったのだろう」 「へい」 「ならば一緒に行こう。昼飯を奢るぞ。なに、拙者も一人では体裁が悪いのでな。知り合いに見られたら何を言われるかわからん。その時、お前がうまく話を合わせてくれ」 「………」 「お前は……名は聞いておらぬが」 「こいつァ、申し遅れやした。伊三次でござんす」 「いさじ? どのような字を書く」  監物が訊いたので、伊三次は掌に人差し指でなぞって教えた。 「そうか、伊三次か。いい名だのう」  褒められて、伊三次はとうとう、乾監物と富突きに一緒に行く羽目になってしまった。      五  富突きは寛永期から始まり、元禄五年(一六九二)に一旦禁止されたが、社寺が建物の修繕費を捻出する目的で享保十五年(一七三〇)から再び始まった。  その中でも湯島天神、谷中の感応寺、目黒不動は江戸の三富として評判が高い。この頃は両国の回向院や浅草の浅草寺の富突きが近間《ちかま》であることから人気があった。  回向院の富突きの開催日は九日だったので、伊三次は間もなく、その日を迎えた。日本橋で監物と落ち合い、二人は舟に乗って回向院をめざした。  伊三次の富札は松の一八四〇番。「一発、寄れ」と、無理やり験《げん》のよい数に拵《こしら》えていた。  監物は五枚ほど買ったという。  回向院前の山門は人の列が長く続いていた。境内に入ると、さらに大勢の人々で立錐《りつすい》の余地もない。監物は熱気で、すでに大汗をかいていた。  本堂の扉は開け放され、中央に木札の入った大きな木箱が置いてある。その木箱の右側には寺社奉行所の役人が裃《かみしも》姿で座っており、左側には長机が置かれ、書役らしい羽織姿の武士と、年寄りの僧侶が二人座っていた。 「旦那、胸がどきどきしやすね」  伊三次は監物を見上げて言った。 「そうだのう。皆、我こそは当ててやると意気込んでおる」  木箱に入っている富札は恐らく四千枚を下るまい。もしかして一万枚近いかも知れない。 「きっと、また駄目よね」  後ろで商家の女房ふうの女が連れの女と話している声が聞こえた。 「おい、伊三、伊三!」  突然、自分の名を呼ばれ、伊三次がきょろきょろと周りを見ると、人垣を掻き分けるようにして朝太郎がこちらへやって来るところだった。 「御大……」 「何んだ、やっぱりお前ェも買ったんじゃねェか」 「へへ、やっぱりね」  伊三次は照れ笑いで応えた。  朝太郎は伊三次の隣りにいる監物に気づくと、ひょいと小腰を屈《かが》めた。 「八丁堀の与力様の息子さんですよ」  伊三次が朝太郎に教えると、監物はぷっくり膨らんだ人差し指を唇に押し当て、「しッ」と短く制した。 「御大、仕事の途中で抜け出して来たんですかい」  伊三次は朝太郎に訊く。朝太郎は仕事着の恰好だった。頭には手拭いを鉢巻きにしていた。 「建て主がこの頃、様子を見に来ねェんで、いい按配だと思って、ちょいと現場を抜け出して来たのよ」 「当たりが出たら早仕舞いを決め込みますかい」 「あたぼうよ」  朝太郎が景気よく言った直後、合図の太鼓が高らかに鳴った。群衆からどよめきが起こった。と同時に本堂から般若心経《はんにやしんぎよう》が一斉に唱えられた。  二人の僧侶が長さ三尺ほどの棒を持って現れた。その棒の先には一寸ほどの錐《きり》がついている。二人の若い僧侶は力仕事でもするように襷掛《たすきが》けの恰好だった。  寺社奉行所の役人が箱の蓋を開け、中身を一度、外へ出した。それから改めて木札を中に収める。箱の蓋には丸い穴が穿《うが》ってあった。 「入れ忘れんなよ」  群衆から茶化す声が上がり、人々はどっと笑った。 「静かに致せ」  役人から注意の声が出た。 「それでは始めまする」  役人の一人が開始を告げると、境内は水を打ったように静まった。 「うむッ」  気合いとともに僧侶の棒が木箱に突き立てられた。役人は錐の先から木札を外し、「一の富、梅の三二五四番」と読み上げた。  伊三次達の後方から悲鳴のような声が聞こえたが、伊三次の耳には朝太郎の舌打ちの方が大きく感じられた。監物は無表情だ。  最初はゆっくりとしたものだったが、回数が進むにつれ、次第に木札を突き刺す速度は増していった。 「ん?」  五両の当たり木札が読み上げられた時、横の監物が妙な声を上げた。 「伊三次、今、何番と言うたかの」 「ええと、鶴の一九九六番だと思いやしたが。御大、そうですよね」  伊三次は念のため朝太郎にも訊いた。 「んだ。鶴のいっく、くんろくよ。語呂のいい番号だ」 「当たった……」  監物は僅かに震える声で呟いた。 「へ?」  伊三次は慌てて監物の富札を覗き込んだ。  そこには確かに鶴の一九九六という数字が摺り込まれていた。周りの人間も疑わしそうに覗く。やがて、その表情は羨《うらや》ましさに変わっていった。 「当たった!」  監物は拳を握り、高々と上に突き上げた。 「旦那、おめでとうございやす」  何んだか嬉しかった。朝太郎も、おざなりに「おめでとうございやす」と言ったが、すぐに次の番号へ耳をそばだてていた。  結局、伊三次と朝太郎の富札は当たり番号に掠りもしなかった。 「けッ、ついてねェ」  朝太郎はぼやいたが、ほったらかしの現場が途端に気になった様子で、そそくさと引き上げて行った。 「旦那、これでぎやまんの簪は買えますね」  回向院を出て、両国橋を渡りながら伊三次は言った。川風が心地よい。ようやく喧噪から逃れて、ほっとする思いだった。 「うむ」  監物も昂ったものがようやく収まった様子で低く肯いた。 「よかったですね」 「しかし、拙者の運もこの程度かと思う」 「何をおっしゃいやす。これが運のつき始めですよ。そう考えたらいいんですよ。これからいいこともありますって」  相手が武家でなかったら、伊三次は肩の一つも叩いて景気をつけたいところだった。  監物は当たり金の五両で、望み通り、ぎやまんの玉簪を誂えるだろう。しかし、それを美雨に贈った時、監物の恋も終わるのだ。そう考えると伊三次は切ない気持ちにもなった。  伊三次は黙りがちになった監物の横顔をそっと見て短い吐息をついた。      六  美雨の縁談が駄目になったと龍之介に教えてくれたのは伊三次だった。大層気になっていたので母親に仔細を訊ねると、「子供は、そんなことは知らずともよいのです」と、にべもなかった。  それでこっそりと、両親の姿が見えないところで伊三次に訊ねたのだ。伊三次は両親には内緒にしてくれと念を押して話してくれた。  伊三次の口ぶりは監物に対して同情的なものがあった。いい方です、と何度も言った。  そのいい方を振ったということは、この先、美雨の祝言は期待できないということにもなる。美雨の心の内は理解できなかったが、年頃になった娘は、ふさわしい相手と祝言を挙げるべきだと龍之介は考えていたので残念な気がした。  九鬼家の庭の桜が葉桜になった頃、龍之介は、また美雨と帰り道が一緒になる機会があった。今度は下男も一緒だった。下男は美雨が縁談を断ったのがよほど悔しいらしく、ぶつぶつと詮のない愚痴を洩らしていた。 「爺や、もはや、その口を閉じたらどうだ」  美雨は苛立った声を上げた。 「しかし、お嬢様。わしはお嬢様のお気持ちがつくづくわからねェ。いったい、どうするおつもりですか。この爺やにとくとお聞かせ下せェやし」 「どうもこうもないわ。気に入らぬ者は気に入らぬと言うただけのこと」 「お相手が芝居役者のような男前でなければ承知しないということですか」  下男は自棄のように声を荒らげた。龍之介は内心で美雨よりも下男の方に加勢している自分を感じた。一人の女性としての美雨は傲慢な性格も仄《ほの》見える。 「そうは言うておらぬ。あの男のやり方が気に喰わぬ。おれに簪をよこした。どうぞ受け取ってくれだと。簪だぞ!」  自分に簪を贈るような男が気に喰わぬということなのか。 「簪ではいけませんか」  龍之介は無邪気に訊いた。 「未練たらしいではないか。断った後でそういう物をよこすなど。腹が立って部屋の壁に投げつけてそのままにしておるわ」 「どんな簪でした?」 「知らぬ……」 「坊ちゃん、奥様のお話では、ぎやまんの大層高価な簪だったそうです」  下男は味方を得て安心したように言った。 「きっと、美雨先生に、たまには女らしく簪の一つも飾ってほしいと思われたのでしょう。優しい方のようですね」  そう言うと、美雨は言葉に窮した様子で黙った。 「しかし、美雨先生は婿殿より剣術の方が大事なので仕方もありません。もはや、ご両親にはっきりと宣言されてはどうですか」 「何を宣言するのだ」  美雨は龍之介に怪訝な眼を向けた。 「生涯、独り身を通すので、別に養子を迎えるなど手を打って下さいとおっしゃればいいのです。ご養子さんにお嫁さんが来て、子供が生まれたら、片岡様の家は安泰でしょう。美雨先生はご養子さん夫婦の邪魔にならないように別のお部屋でひっそりと暮らし、これまで通り、道場で弟子達に稽古をつける生活をしたらよろしいでしょう」  龍之介は自分の口調がやや冷淡になっているのを感じたが、ひと息に喋った。美雨は悔しそうに龍之介を睨んだ。この先、縁談に耳を貸さないとすれば、龍之介の言った暮らしになることは間違いない。美雨はふっと、その時のことを想像したようだ。 「ご養子さん夫婦に遠慮なさりながら暮らすなんざ……ああ、いやだ、いやだ」  下男は自分のことのように首を振った。 「龍之介、貴様は生意気だ!」  美雨は龍之介に吐き捨てると、いきなり走り出した。 「少し言い過ぎましたでしょうか」  美雨の後ろ姿を眺めながら龍之介は言った。 「いいや。あのぐらい言わなけりゃ、わからねェお人ですから」  下男は溜飲を下げたように皺深い顔で笑った。  伊三次は尾張町で最後の仕事を片づけると八丁堀に足を向けた。夕方に来いと不破に言われていたからである。  南八丁堀の日川道場がある通りに入って、伊三次はふと足を止めた。日川道場には町方役人の子弟ばかりでなく、土佐国高知藩の藩士も通っていた。藩邸が鍛冶橋《かじばし》御門内にあるので近いせいもあったのだろう。  しかし、暮六つ(午後六時頃)近くの道場は稽古も終わった様子で竹刀を肩に掛けた弟子達の姿はなかった。そんな時に武者窓から中を覗いている龍之介の姿は目立った。 「坊ちゃん」  声を掛けると、龍之介は驚いたように振り向いたが、それが伊三次だとわかると悪戯っぽい笑顔で手招きした。 「何かありやしたかい」  伊三次は怪訝な顔をして龍之介の傍へ行き、そっと中を覗いた。道場では美雨が一人の弟子に稽古をつけていたが、その弟子は何んと乾監物だった。  太り気味の監物は必死の形相で竹刀を構えているが、どこもここも隙だらけで、見ているこちらが恥ずかしくなる。 「こいつァ……」 「おもしろいでしょう?」  龍之介は伊三次の顔色を窺うように訊いた。 「いってェ、どういうことなんですか。片岡様のお嬢様は乾様との縁談は断ったはずだ。その相手に稽古をつけて差し上げるというのは腑に落ちやせんね」  伊三次は呑み込めない顔で続けた。 「美雨先生は気が変わられたのかも知れません」 「これは、あれですかい? 簪のご利益《りやく》があったってことですかい」 「そうかも知れませんね」  龍之介は訳知り顔でほくそ笑んだ。  簪のことは龍之介からも聞いた。美雨は喜ぶどころか大層腹を立てている様子だと知って、伊三次は他人事ながら意気消沈した。せっかくの監物の心尽くしが無駄になったと思った。しかし、ここにきて、事態は俄かに好転したのだろうか。 「ね、ね、坊ちゃん、もっと深い仔細があるんでげしょう? 聞かしておくんなさいよ」  伊三次は龍之介に縋《すが》るような眼を向けた。 「本当に知らないんですよ。美雨先生は幾ら剣術の手練《てだ》れだといっても、いつまでも独りでいる訳にはゆかないでしょう。きっと、先のことを考えられる気になられたのでしょう」  龍之介はそう言って、また武者窓の中に眼を凝らした。  監物は大汗をかいていた。藍染めの稽古着の背中と脇の下は汗のしみが拡がっていた。 「剣術の腕が上がったなら祝言を承知するとでもおっしゃったんでしょうかねえ。乾様は剣術と学問は苦手なお人なのに」  伊三次は独り言のように言った。 「それじゃ、何もいいところはないじゃないですか。大抵はどっちかですよ」  龍之介は呆れたように言う。 「乾様はお人柄がいいし、何しろ真面目だ。お役人はそれが一番ですぜ」 「剣術の腕が上がるというより、美雨先生に勝ったなら祝言をするとおっしゃったのかも知れませんよ」  龍之介は美雨の性格を考えて言う。 「さて、そいつァ、ちょいと難しい問題ですね。あれじゃあ……」  監物は足がもつれて転んだところだった。  美雨の竹刀が容赦もなく監物の腰を打つ。 「何をしておる。相手に打ち込まれるより先に自分から倒れてどうなさる」  美雨の甲高い声が弾《はじ》けると、伊三次と龍之介は口許に掌を押し当てて笑いを堪えた。  監物は「申し訳ござらん」と謝って立ち上がった。その時、伊三次と眼が合った。伊三次は慌てて首を引っ込めた。 「坊ちゃん、お邪魔になりやす。そろそろ引き上げやしょう」 「そうですね。もう少し見物したいところですけど、それでは乾さんがお気の毒ですから」  龍之介は名残り惜しそうにその場を離れた。  伊三次と龍之介の後ろから「よそ見をする暇はござらん!」と、美雨の声が降った。二人は顔を見合わせて、また笑いを堪える顔になった。  何んだか倖せな気分だった。伊三次と龍之介は美雨と監物の仲が進展するような予感がしていた。      七  回向院の富突き以来、伊三次は朝太郎と会っていなかった。夕方に京橋の自身番に寄った帰り、ふと思いついて大根河岸の普請現場へ足を向けた。  ところが、現場はどうした訳か玄能の音がしない。まだ日没には間があったし、現場は八分通りでき上がっているが、完成した様子でもなかった。  不審を覚えて現場の裏手に廻ると、朝太郎が積み重ねた材木の傍で所在なげに煙管を吹かしていた。 「御大……」  伊三次が声を掛けると、朝太郎は気の抜けたような顔でこちらを見た。 「早仕舞いですかい」 「いいや、そうじゃねェ。建て主が|とんずら《ヽヽヽヽ》しちまったのよ」  朝太郎は吐息混じりに呟いて煙管の灰を落とした。 「そりゃまた、どうして」 「どうしたもこうしたもあるもんか。金に詰まったんだろう。手付けは最初に貰ったが、残りは後でそっくり渡してくれる約束だったんだ。それが……」 「建て主は懐に余裕があると言っていたじゃねェですか」 「すっかり騙されちまったぜ。あの青物売り、あちこちの寺の富札をその気になって買い漁《あさ》っていたらしい。何んぼ何んでも、そうそう当たりが続くかよ。とうとう、有り金をはたいちまって|おけら《ヽヽヽ》になったらしい。それでこの家も放り出したんだ。今度会ったら、胸倉掴んで一つ二つ、殴ってやる」  朝太郎は語気荒く吐き捨てた。 「そいじゃ、この現場は只働きになるんですかい」 「大家さんに相談したら、知っている家主に掛け合ってくれると言ったが、どうなるか……ここで待っているしかねェのよ。他の大工はさっさとよそに行っちまった。おれが請け負った仕事だから、おれがけりをつけなきゃならねェんだ。くそッ」  朝太郎はいかにも悔しそうだった。 「家主さんが快く引き受けてくれるといいですね」  伊三次は朝太郎を慰めるように言った。 「家主は佐内町で箸問屋をやっている人で、借家を幾つも持っているということだ。だが、この不景気だしよう、二つ返事で引き受けてくれるかどうか……」  朝太郎は期待のできないような口ぶりである。 「翁屋さんですね」  箸問屋と言われて、伊三次はすぐに思い当たった。 「知っていたのか」 「へい。おれァ、今、佐内町に住んでいるんです。翁屋さんにはお世話になっておりやす。あの人なら信用できますよ」 「お前ェが言うのなら間違ェねェ。また引っ掛かったんじゃ、今度こそ、首を縊《くく》らなきゃならねェと思っていたによ」 「そんな大袈裟な」 「しかし、こいつァ、一生の不覚というものだ」  朝太郎はいつもの口癖を呟いた。伊三次が朝太郎と話をしている所に、京橋の自身番で顔を合わせる大家の儀右衛門と翁屋八兵衛が家の様子を見に来た。 「おや、伊三次さんじゃないか。どうしたんですか」  儀右衛門は意外そうな顔で訊いた。 「へい、こっちの大工さんとは昔からの知り合いなもんで」 「そうですか。朝太郎さんも、とんだ目に遭《あ》いましたね。でも、もう安心ですよ。翁屋さんが引き受けて下さるんですから」 「え、本当ですかい? こいつはありがてェ。地獄で仏にあったようなもんだ」  朝太郎は途端に相好を崩し、頭の手拭いを毟《むし》り取って、儀右衛門と八兵衛に頭を下げた。 「そうです、そうです。翁屋さんなら安心だ」  伊三次の褒め言葉に八兵衛は微かに笑ったが、すぐに家の様子を見て廻った。 「いい家なのにねえ」  八兵衛は誰にともなく言った。 「旦那、建て主は富突きで大金を手にしたそうですぜ。元の商売もうっちゃらかして浮かれていたんで、こんな様《ざま》になっちまったんですよ」  伊三次は八兵衛の後からついて行きながら口を挟《はさ》んだ。 「一の富だってねえ。八十両もの金を持つ人間は、この江戸でもそうそうはいませんよ。しかし、どれほど大金でも遣うとなったら早いもんです」  八兵衛はしみじみと言った。 「真面目に働くことが肝腎ですよね」  伊三次が子供のような口調で言うと、儀右衛門はくすくす笑いながら、「伊三次さんなら大丈夫ですよ」と言った。 「お金は大切にする人の所にしか集まりません。そういうもんです」  八兵衛はきっぱりと言った。朝太郎は感心した顔で肯いている。 「どれ、大工さんに早く仕上げて貰って、大家さんには新しく借りてくれる人を捜していただきましょうか」  八兵衛は手練れの商人の顔で朝太郎と儀右衛門に言った。  伊三次は八兵衛と一緒に佐内町へ戻った。  これで翁屋はまた借家を一軒増やしたことになる。金持ちはどこまでも金持ちだと思うが、父親譲りの地道な商売を守っている八兵衛に見習うべきところは多い。 「もうすぐですね」  八兵衛はお文が出産する日のことを言った。 「へい」 「お父っつぁんになるんですから、これからますます頑張って下さいよ」 「ありがとうございやす」 「富突きなんざ、あてにしてはいけませんよ」  八兵衛は悪戯っぽい眼でちくりと言った。  伊三次は驚いた顔になった。 「旦那、どうして、おれが富札を買ったことをご存じなんで」 「さあてね。そんな気がふっとしただけだよ」  八兵衛はさらりとはぐらかした。  八兵衛が謎を掛けた理由はすぐに知れた。  家に戻ると、お文は伊三次の目の前で紙ぺらのような物をこれみよがしに振って見せた。  それは外れた富札だった。仕事をした手間賃と一緒に巾着に入れていたのだが、銭を取り出した時にでも畳に落ちたのだろう。お文は伊三次が仕事で出かけている間に見つけたようだ。恐らく、八兵衛に告げ口したのもお文だろう。 「旦那、聞いて下さいな。うちの人ったら、こんな物をこっそり買っていたんですよ。呆れたものだ。富突きに当たるような運があると思っているんでしょうかねえ」  と。  黙り込んだ伊三次にお文の笑い声が弾けた。  突き出たお文の腹は、この頃、ますます大きい。 [#この行1字下げ] 作者注・作中、片岡美雨が口ずさんでいたものは、「梁塵秘抄」の中から引用しました。 [#改ページ]   月に霞はどでごんす      一  手首を腰紐で結わえ、お互いが離れないようにした男女の水死体は船松町《ふなまつちよう》の稲荷近くの堀で発見された。届け出て来たのは松平遠江守《まつだいらとおとうみのかみ》の屋敷近くの辻番だった。  北町奉行所定廻り同心の不破友之進《ふわとものしん》が中間《ちゆうげん》の松助《まつすけ》を伴って現場に駆けつけると、土地の岡っ引きの姿はなく、届け出た当の辻番が心細いような顔で堀端に立っていた。  不破は二人が他殺ではなく、相対死《あいたいじに》(心中)であることを確認すると、「こいつ等に心当たりはあるのかい」と辻番に訊いた。 「へい、女の方はわかりやせんが、男は松平様のお屋敷に奉公しておりやした清吉《せいきち》という渡り中間です。二、三日前から行方知れずになっておりやした」  四十がらみの辻番はそう答えた。 「そうけェ、そいじゃ、お屋敷に伝えて始末して貰いな」  不破はあっさりと言う。二人とも息が絶えているので、身許を確認する以外、奉行所の仕事はない。どちらかでも生き残ったとすれば、晒《さら》し場《ば》に晒されて非人に落とされる。まあ、生き恥を晒すより、いっそ、ひと思いに果てた方が相対死を図った者にとっては幸いだろう。奉行所の役人を長いこと務めている不破はそのように考えていた。 「ですが、この堀は汐入りですんで、突き流しても構わねェんじゃねェですか? 清吉は奉公していたと申しましても、まだ一年にもならねェ野郎なもんで……」  辻番は屋敷に厄介が及ぶことに難色を示して思い切ったことを言う。不破と松助は顔を見合わせた。  江戸は本当に水死体が多い土地柄だった。  井戸や堀に身投げする者や、目の前の男女のように、どういう事情があったか知れないが、大川に身投げする者も後を絶たない。  正確に数えたことはないが、月に三十人ほどの人間が水死体で発見されるのではないだろうか。そのいちいちに検屍をしていては、手間を喰い、他の事件がなおざりになる。  だから、少し乱暴ではあるが、海で発見された水死体は波にまかせ、堀や川を漂うものも流れにまかせる。当然、大名屋敷内の池や井戸で発見された水死体は屋敷の采配に委《ゆだ》ねるので、町方役人の取り調べはない。ただし、大名屋敷近くの堀で発見された場合は幕府の目付に届けなければならないという規定があった。辻番が汐入りを強調したのは、規定の中でも海水が流入する堀は例外であったからだ。その堀は辻番の言うように汐入りだった。  土地の岡っ引きの姿がないのは、それを見込んで頬被《ほおかぶ》りを決めたものか。 「そいじゃ、もう一回、突き流すかい? おれは構わねェぜ。ただし、この|おろく《ヽヽヽ》は、どうしても、お前ェ達に引き上げてほしくて、ここに流れ着いたと思うがな」  そう言うと、辻番は言葉に窮した様子で黙り込んだ。 「素性が知れているんなら、ちょいと面倒だが供養してやんな。まだ若けェ男じゃねェか。それに、こっちは、ちょいとした美印《びじるし》だ。おおかた、どこぞの切見世から足抜けして、にっちもさっちもいかなくなり、思いあまって事に及んだんだろう。気の毒にな。女の方は行方知れずの者を当たれば、おっつけ身許は知れるはずだ」 「わかりやした。そいじゃ、ちょいとお屋敷の方に知らせて参りやす」  辻番は観念してそう応えた。 「おう、迎えが来るまで待っててやるぜ」  不破は背中を向けた男へ覆《おお》い被《かぶ》せた。野次馬が何人か岸に横たわっている水死体を気味悪そうな顔で眺めていた。  不破はたそがれ迫る空を仰いでから、 「月に葦《あし》、浮いたばかりの土左衛門」  と低く呟《つぶや》いた。 「旦那、お人の悪い」  松助は不破を咎《とが》めるように言った。 「おれが言ったんじゃねェぜ。この間、深川で会った太鼓(幇間《ほうかん》)が喋っていたのよ」 「笑助《えみすけ》ですね。あいつは毒のあることばかり言う男でさァ。ですが、その文句はあいつにしちゃ、気が利いておりやすね。取り合わせが妙に壺にはまっていまさァ」 「なに、手前ェが拵《こしら》えたもんじゃなくて、誰かの受け売りだろう」 「やっぱり、そんなところでしょうねえ」  松助は合点のいった顔で肯《うなず》く。 「お前ェ、あの男をどう思う」 「どう思うとおっしゃられても……」  松助は呑み込めない顔で不破の顔を見た。 「おれァ、何か引っ掛かるのよ」 「と申しますと?」 「あの眼がよ。あれは太鼓の眼じゃねェぜ」 「………」 「|だんびら《ヽヽヽヽ》持たせたら、結構できるんじゃねェかと思っている」 「そいじゃ……」  松助は不破が追い掛けている事件にようやく思い当たった様子である。 「何か証拠を掴みやしたんで」  松助は早口で続けた。 「いや……」 「探りやしょう」 「この間の座敷には喜久壽《きくじゆ》も顔を出していた。あいつなら笑助の素性を知っているような気がする」  不破はさり気なく、松助に指示を促す。 「緑川《みどりかわ》の旦那には……」  松助は恐る恐る口を開いた。隠密廻り同心の緑川|平八郎《へいはちろう》と深川芸者の喜久壽が何やら訳ありな様子であるのは松助もすでに知っていた。 「まだ何も言っていねェ。奴はこの間まで女房とごたごたしていたが、ようやく落ち着いているところだ。下手にまた喜久壽と顔を合わせるきっかけを作ったら奴の女房に恨まれる」 「さいですね。そいじゃ、伊三次に繋ぎをつけて喜久壽のことはあいつに任せやしょう」 「何んだ、お前ェは喜久壽が苦手か」  不破は解せない顔で松助を見た。 「あっしは喜久壽ばかりでなく、辰巳芸者は最初《はな》っから苦手でさァ。口じゃ敵わねェし、どうもあの辰巳風というのが性《しよう》に合いやせん」 「そいじゃ、伊三次の女房も苦手か」  不破は試すように訊いた。 「へい。よくも伊三次があの女と所帯を持ったものと感心しているぐらいですから」  松助の言葉に不破は愉快そうに笑った。 「蓼《たで》喰う虫も好きずきよ」  不破が言うと、松助は|ぷッ《ヽヽ》と低く噴《ふ》いた。  ──いけすかないよ、八丁堀は。人が死んでる傍《そば》で笑っているなんて。  野次馬の間から非難の声が上がった。  不破は途端に空咳《からせき》をして慇懃《いんぎん》な表情になった。松助も「退《の》いた退いた、見世もんじゃねェ」と声を荒らげた。  商売柄、不破は死人を見ても何んの感情も湧かない。ただ、不破は娘の茜《あかね》が生まれてから、幼い子供の亡骸《なきがら》を目にすると以前より哀れを覚えるようになった。  生きておれば、取りあえず明日はくる。明日になれば、菓子を喰ったり、おもちゃで遊ぶ楽しみがある。両親や爺婆《じじばば》に頬ずりされる倖せもあろう。死んだ子供に明日はない。もっとも、死んだ年寄りにも明日はない。  人の生き死にの問題を少し深く考えると、決まって不破は混乱した。昨日、今日、明日という時間の概念もよくわからない。過ぎた昨日は取り返しがつかないし、明日のこともわからない。不破にとって今日だけが確実な時間だった。      二  お文《ぶん》は産婆のお浜《はま》が帰ると、がっくりと疲れを覚えた。出産の予定日はとうに過ぎている。  初産《ういざん》は遅れがちになるということだから、それは気にしていなかったが、問題は腹の子が逆子《さかご》であることだった。  お浜がお文の腹を器用にさすって一度は正常な位置に戻したのだが、臨月に入って、またも引っ繰り返ってしまったらしい。逆子は難産になる恐れがあった。もしかして赤ん坊は駄目になるかも知れない。お浜は、はっきりとは言わなかったが、その表情には困惑した色があった。  お浜から与えられた煎じ薬を飲んでから、お文は蒲団に横になり、天井を見つめて吐息をついた。もしも、腹の子が駄目になるとしたら、三十路《みそじ》近くの自分のこと、子を持つ機会は再びないような気がした。つわりはなかったものの、腰の痛み、足のむくみにお文は往生していた。  その辛さも子供のためと思って我慢して来たのだ。お文はやり切れなさに涙ぐんだ。 「ごめん下さいまし」  土間口から女の声がした。小僧の九兵衛《くへえ》は伊三次について出かけている。お文はゆっくりとした動作で起き上がると、髪のほつれ毛を掻き上げながら茶の間の障子を開けた。 「姐さん!」  お文は思わず甲高い声を上げた。深川芸者の喜久壽が風呂敷包みを抱えて立っていた。 「ずい分、探してしまいましたよ。一度来たことがあるのに、すっかり忘れちまって。通りを一本間違えたらしくて、そこの箸屋《はしや》の番頭さんに聞いてようやくわかったんですよ」  喜久壽は額に汗を滲ませていた。喜久壽の顔を見るのは半年ぶりだった。 「ささ、上がって下《くだ》っし。わっちはこの身体なもんですから、散らかっておりますが」  お文は喜久壽の手を取ろうとした。喜久壽は逆にお文の身体を支えるようにして下駄を脱ぐと、茶の間に進んだ。  長火鉢の前に座蒲団を置くと、喜久壽はさり気なく、それを脇に押しやった。 「今日はこっちに用事でも?」  お文は茶の用意をしながら訊いた。納戸《なんど》色の地に赤筋《あかすじ》の縞の単衣《ひとえ》を着た喜久壽は相変わらずきれいだった。 「いえね、門前仲町の親分にお文さんのことを訊いても、さっぱり埒《らち》が明かないので気になっていたんですよ。伊三次さんはあまり自分のことは話さない人だから、親分も詳しいことは知らないらしくて。それで、ちょうど今夜はお座敷がないものですから、思い切って出て来たんですよ」  喜久壽がお文の身を案じていたことが、この上もなく嬉しかった。 「そいじゃ、姐さん。泊まってって下さいな」  お文は張り切って言った。 「ありがとう。でも、そうもしていられないんですよ。こっちに出て来たら出て来たで、あれこれ用事があって。足が遠のいたお客さんの所へも顔を出してお愛想をしなけりゃならないし。お文さんが元気そうなんで少し安心しましたよ。いい子を産んで下さいましな」  喜久壽はお文の腹にさり気なく視線を向けて言った。優しい言葉にお文の胸が熱くなる。  茶の入った湯呑を差し出すと、喜久壽はお文の眼をまじまじと見た。お文の眼は少し赤くなっていたようだ。 「何か困ったことでも?」  喜久壽は眉根を寄せて訊く。 「姐さん、わっちの子は逆子なんですよ。無事に生まれるかどうかもわからないんです」 「そんな……」  喜久壽は胸の辺りを掌で押さえた。驚きで心《しん》ノ臓《ぞう》の動悸が高くなったようだ。 「わっちはどうしたらいいか」 「伊三次さんはそのこと、ご存じなんですか」 「いえ、まだ、うちの人には知らせていないんですよ」 「困りましたねえ。そういうことなら産婆さんではなく、産科のお医者さんに頼まなくては」 「でも、わっちは、そんな医者に心当たりはないんです」 「緑川の旦那は確か、蛭田《ひるた》流のお医者様をご存じですよ。奥様もそのお医者様のお世話になったそうですから。一番上の坊ちゃんがやはり逆子だったんですよ」  蛭田流とは聞いたことのない名前だ。産科の医者と言えば賀川《かがわ》流が有名だった。 「何んでも他のお医者は赤ん坊を引き出すのに鋏《はさみ》のような道具を使うらしくて、それでは赤ん坊に傷がついてしまいます。蛭田流は道具を使わず手指だけでうまく引き出すそうなんですよ」 「でも……」  臆する気持ちがお文にあった。お浜をないがしろにするような気がした。 「迷っていても始まりませんよ。あたしはさっそく旦那に話をしてきます」  喜久壽は湯呑をひと口|啜《すす》ると、腰を浮かせたが、 「あら、忘れるところだった。これ、お土産。若狭屋《わかさや》さんのお菓子ですよ。伊三次さんのお茶受けにでも」  慌てて風呂敷を解き、菓子の包みを取り出した。 「お気を遣わせて……でも、若狭屋の物がよく手に入りましたね。あそこは、いきなり行ってもなかなか売ってくれない店だ」  竪川《たてかわ》の一ノ橋の傍にある若狭屋は抹茶菓子の老舗《しにせ》だった。職人を使わず、家族だけで商売しているので、すべて予約が要る店だった。 「そうなんですよ。客はお武家がほとんどで、町家の者には、そうそうは売らないんだそうですよ」  喜久壽は少し得意そうに言った。 「それじゃ、緑川の旦那の口利きでもあったんですか」 「まさか……旦那はお菓子なんて眼もくれませんよ」 「………」 「この頃、お座敷で顔を合わせる太鼓に頼んだんですよ」 「玉助師匠ですか」  お文は知っている幇間の名を言った。 「ううん、そうじゃないの。お文さんは、もう一年以上も深川はご無沙汰だ。お座敷の顔ぶれもすっかり変わりましたよ」 「それはそうでしょうねえ」 「桜川《さくらがわ》笑助という……渡りの太鼓って言えばいいのかしら」 「渡りの?」  渡り中間や渡り職人はよく聞くことであるが、渡り太鼓は聞かない。もっとも渡り芸者もあるものではない。 「さして修業した訳でもないのに座持ちがいいんですよ。あれは天性のものでしょうねえ。深川のお座敷じゃ、引っ張りだこなんですよ」 「その太鼓が若狭屋の贔屓《ひいき》だったんですか」  お文は腑に落ちない気持ちでしゃれた包み紙に眼を落とした。 「ええそうなの。お文さん、気を落とさずにがんばるんですよ。あたしがきっと産科のお医者を連れてきますから」 「姐さん、恩に着ます」  藁《わら》にも縋《すが》る思いでいたお文は喜久壽に深々と頭を下げた。      三 「うんめェ……」  伊三次は「若緑《わかみどり》」と銘が入った菓子をひと口食べると感嘆の声を上げた。若狭屋の菓子は季節ごとに様々の種類があるが、中に必ず入っているのは滑らかな|きんとん《ヽヽヽヽ》である。  若緑の名の通り、薄い緑色の皮の中身は卵色のきんとんだった。眼に鮮やかな彩りは食べるのが惜しいほどだ。 「どこの貰い物だ」  伊三次はすかさず二つ目に手を伸ばして訊いた。 「喜久壽姐さんのお土産さ」 「あっちゃあ、喜久壽がこっちに出て来ていたのか。そいつは惜しいことをした」  伊三次は残念そうな顔である。 「姐さんに何か用事があったのかえ」 「ああ。ちょいと深川にいる男のことで訊きてェことがあったのよ」 「御用の筋かえ」 「そんなところだ」 「なに、明日にでも行けばいいことだ。日中は家にいるだろうから」  お文はさり気なく言って急須の茶を湯呑に注いだ。 「ところで、あの話はどうする」  伊三次は先日、深川の材木問屋「信濃屋《しなのや》」の主から囁かれた話を持ち出す。蛤町《はまぐりちよう》の家が建っていた土地を譲ってくれないかということだった。火事で家を焼かれてから、その場所は更地《さらち》になったままである。信濃屋|五兵衛《ごへえ》は自分の商売が拡がるにつれ、材木の保管場所に悩んでいた。たかだか三十坪の空地でも五兵衛にとっては喉から手が出るほどほしいのだろう。そのために、五兵衛は深川の料理茶屋「宝来屋《ほうらいや》」で一席設け、伊三次と不破、それに門前仲町の岡っ引き、増蔵《ますぞう》を招待しているのだ。伊三次はお文が何んと言うかと即答を避けたが、五兵衛はそれ以来、どうだどうだと返事を急《せ》かしていた。  お文は、家はともかく、土地は材木仲買人の伊勢屋忠兵衛にも意見を訊かなければならないと思っていた。家も土地も忠兵衛の父親から与えられたものだった。五兵衛は手回しよく、向島にいる忠兵衛に了解を取っていた。後はお文の胸一つだった。 「わっちはどうも気が進まない」  お文は低い声で言った。遠い将来、もしかして深川に戻ることがあるかも知れない。そのために土地は残しておきたかった。深川はお文の生まれた所だ。帰る所がないのは寂しいと思う。 「売っちまったら、どうしようもねェからな。そいつはわかるぜ」  伊三次は物分かりのよいことを言った。 「それに、こう言っちゃ何んだが、わっちはどうも信濃屋の旦那が信用できないところがあってさ」 「そうか? おれァ、別に何も感じねェが。今まで手間賃を踏み倒されたということもねェし」  伊三次がそう言うと「はん」と、お文は薄く笑った。 「誰が、たかだか三十二文の髪結い賃を踏み倒すか。そんなことをした日にゃ、信濃屋の旦那は深川にいられないよ。けち臭いことをお言いでないよ」 「ひでェ……すんなら、どうするよ。お前ェ、本当はどうしてェ」  伊三次の手がお文の腹を優しく撫でた。お文は喉の奥からこもった笑い声を立てた。 「材木置き場に使いたいというなら、わっちは貸しても構わないが、売るとなったら別さ」 「だが、地代金の取り立てで毎度深川に行くのは骨だぜ」 「だからさ、それを商売にしている人に任せたいのさ」 「誰よ」 「翁屋《おきなや》の旦那。あの人に任せたら、番頭が決まった日に取り立てに行くじゃないか。わっち等は翁屋に口銭《くちぜに》(手数料)を払って、残りをいただくという寸法よ。そうなりゃ、暮らしの足しにもなるし」  翁屋は、本業は箸屋だが、借家を幾つも持っている家主でもあった。 「翁屋の旦那は引き受けてくれるかなあ」 「さあ、そいつはお前さんの腕次第だ」 「お前ェが口利きしねェのかい」 「わっちは今、それどころじゃないよ。いいね、頼んだよ」  お文は伊三次に念を押して、その話は仕舞いにしてしまった。逆子のことは、とうとう言えなかった。伊三次の悩みを増やしたくないという気持ちもあったからだ。      四  不破友之進は奉行所で朝の申し送りを済ませると、見廻りに出るため玄関に向かった。  玄関では、緑川平八郎がひと足早く雪駄《せつた》を突っ掛けたところだった。 「友之進、今日はどっちに廻るつもりだ」  緑川は気さくな言葉を掛けた。 「ふむ、京橋の番所から深川だな」 「深川か……」  平八郎は思案する顔になった。その日の緑川は変装ではなく、当たり前に紋付羽織に着流しの恰好である。隠密廻りは素性を隠すために変装して下手人の探索をすることが多い。 「|これ《ヽヽ》の顔でも思い出したか」  不破は揶揄《やゆ》するように小指を立てた。緑川は、ふっと笑い、「その小指から頼まれ事をされてな」と、臆面もなく言ってのける。 「これはこれは、朝からご馳走様でござる」  不破はわざと慇懃に応えた。その拍子に緑川はきゅっと眉を上げた。 「馬鹿に呑気な物言いだ。その頼まれ事はお前ェの小者《こもの》にも関わることなんだぞ」  緑川はやけにもったいぶった言い方をした。 「おれの? 回りくどい。はっきり言え」  不破は少し真顔になった。喜久壽から例の幇間の話でも仕入れたのかと思った。それならそれで緑川にも詳しい話をしなければならない。だが、緑川は不破の予想を裏切って、全く別のことを持ち出した。 「伊三次の餓鬼は逆子だそうだ」 「何んだと?」  もちろん、それは不破にとって初耳のことである。不意を衝《つ》かれた気分だった。 「産婆が手余ししそうだから、産科の医者に口を利いてくれと頼まれたんだぜ」  不破は足許に視線を落とした。 「伊三次はそんなこと、これっぽっちも喋っていなかったが……」 「奴は、まだそのことは知らねェらしい。女房は辰巳上がりだから、普段は立て板に水のごとくまくし立てるおなごだが、存外に亭主思いでの、余計な心配を掛けたくないと手前ェの胸に収めていたらしい。小指は仔細を聞いて同情してな、どうぞ助けてやってくれとおれに縋《すが》ってきたのよ。どうだ!」  何が|どうだ《ヽヽヽ》なのか知らないが、緑川は得意そうだった。周りに気を遣って喜久壽の名を出さないのが慎重な緑川らしい。 「お前ェに心当たりがあるのかい」  不破は低い声で訊く。産科の医者まで顔見知りがいるとは驚きだった。 「大ありだ。直衛《なおえ》も生まれる時、逆子だったのよ。蛭田流の産科の医者のお蔭で無事に命が繋がったという訳だ。あんな小生意気な餓鬼になるんだったら、ちょいと早まったと思わねェでもねェ」 「何を言うか。直衛はどこを取ってもお前ェと瓜《うり》二つだ。それを聞いたら直衛は臍《へそ》を曲げるぞ。情なしの|てて《ヽヽ》親だってな」  不破の言葉に緑川は薄く笑った。 「直衛を取り上げた医者はとっくにお陀仏になっているが、弟子が何人かいたはずだ。その一人に声を掛けてみようと思っている」 「よろしく頼む」  不破はその時だけ深々と頭を下げた。 「お前ェの女房は、こうなると上玉だったな。亭主を煩わすことなく、|すぽん《ヽヽヽ》と赤ん坊は産むし、悋気《りんき》はしねェ、贅沢はしねェ。てェしたもんだ」 「|いなみ《ヽヽヽ》に言っておく。緑川が褒《ほ》めていたとな」 「なに、冗談だ。まともに取るな」  緑川は照れて言う。 「張り切って酒肴《しゆこう》の用意をしてお前ェを呼ぶかも知れん」 「………」 「伊三次の餓鬼が無事に生まれたら、どうだ、一緒に祝杯を挙げるか、ん?」  不破は緑川の顔色を窺《うかが》いながら続けた。緑川はまた皮肉な笑みを浮かべ「たまにはそれもいいな。当てにしねェで待ってるぜ」と応えた。  緑川が足早に出て行くと不破は短い吐息をついた。子供は月が満ちれば自然に生まれてくるものと不破は思っていた。  もちろん、死産になったり、お産で命を落とす女房の話を聞くこともあったが、それはあくまでも他人事《ひとごと》だった。身近にそういう危険な状況の者がいると知って、改めてお産がそれほど簡単なものではないことを悟った。  そう言えば、小者の弥八《やはち》の女房も前年の秋に子供が駄目になったことを思い出す。お文もそれに続くとなったらやり切れない気がした。娘の茜の泣き声がうるさくて眠れないなどと文句を言っている自分が、ひどく手前勝手な人間に思えた。  蛭田流産科を打ち立てた蛭田|玄仙《げんせん》は陸奥国《むつのくに》白河郡渡瀬《しらかわぐんわたせ》の農家の出身だった。医者になるまでの詳しい経歴はわからないが、賀川流産科に反発を感じて自ら産科の研究に乗り出したものと思われる。臆測するに、玄仙は賀川流の産科でわが子を亡くした経験があるのかも知れない。  お文は緑川が連れて来た富田|黄湖《おうこ》から蛭田流の説明を受けながら、そんなことを思った。  医者とはいえ、男に腹を摩《さす》られるのは抵抗があったが、今はそんなことも言っていられない。大丈夫ですと、黄湖が強く言ってくれたので、お文の不安は幾分和らいだ。黄湖は麹町《こうじまち》に住んでいるので、もしも出産の|しるし《ヽヽヽ》を見た時は、すぐに使いの者をよこすようにと言い添えた。  診察を終えると、外で待っていた緑川を招《しよう》じ入れ、お文は黄湖と緑川に茶を淹《い》れた。喜久壽が持って来てくれた若狭屋の菓子が残っていたのが幸いだった。少し硬くなっているかと心配しながら、そっと菓子皿にのせて勧めた。 「おや、この菓子は……」  黄湖はまだ三十一の医者だが、禿頭のせいで年より幾つか上に見える。ぎょろりとした眼、わし鼻は一度見たら忘れられないほど印象的である。六尺近い背丈は押し出しの強さも感じさせた。 「本所の若狭屋さんというお店のものですよ。この間、深川の芸者さんからいただいたんです。少々、お味が落ちているかも知れませんが」  お文がそう言うと、緑川はそっと菓子皿に眼を向けた。喜久壽の手土産だとわかったらしい。 「わたしはこれでも茶を嗜《たしな》みましてな、若狭屋の菓子は茶席でもよく用いられます。ここで馳走にあずかるとは思いも寄りませぬ。いや、まことに結構」  黄湖は無邪気に相好を崩した。緑川も珍しく手を伸ばしたが、特に感想は言わなかった。喜久壽が持って来たものだから興味を引かれたに過ぎないのだ。 「ところで伊三次は、今日はどこを廻っている」  玉露をぐびりと啜ると緑川はお文に訊いた。同心の小者でもある伊三次の動きに、緑川はさり気なく注意を払っているようだ。 「深川だと思います」 「そうか……」 「お内儀《かみ》、お知り合いは若狭屋の菓子をいつも買っておられるんですかな」  黄湖は菓子が気に入った様子でそんなことを訊いた。 「いえ、あそこの店はお武家さん相手で、町家の者はなかなか手に入らないんだそうです。それで、姐さんは若狭屋を贔屓にしている太鼓に頼んで買って貰ったそうなんですよ。わっちの亭主は菓子が好物なもんで、姐さんは気を遣って下さったんでしょう」 「それでは、その太鼓というのは武家上がりですかな」 「さあ、そこまでは存じませんが」 「いや、きっとそうですよ」  黄湖は妙に断定的な物言いをした。 「何んという太鼓よ」  緑川が口を挟んだ。 「桜川……笑助と言っておりました」 「聞かぬ名だの」 「渡りの太鼓だそうです」 「渡りの?」  緑川もお文と同様に少し驚いた様子だった。  黄湖は菓子を食べ、茶を飲むと、もしも異変が起きたら夜中でも構わぬから麹町の住まいに使いをよこせと、念を押して帰って行った。  緑川は途中まで黄湖に同行した様子であるが、その後、深川に向かったことまでは、お文は知らなかった。      五  伊三次が喜久壽の家で桜川笑助の話を聞いていた時、緑川平八郎が突然やって来た。  緑川は勝手知ったる家とばかり、ずかずかと茶の間に上がってくると、座っていた伊三次に「何んだ、お前ェ」と、怪訝《けげん》な眼を向けた。 「お邪魔しておりやす」  伊三次は殊勝に頭を下げたが、内心でまずい人に出くわしてしまったと思っていた。 「何んの用だ」  緑川は伊三次の横に胡座《あぐら》をかくと、横柄な態度で訊いた。 「へい、ちょいとこのう、姐さんに訊《たず》ねてェことがありやしたもんで」 「例のことなら片がついたぞ。安心しろ」 「へ?」  伊三次は間抜けな顔で緑川を見た。喜久壽の微妙な目配せがきて、緑川は途端に「うう、何、こいつは早まった」と慌てて取り繕う。 「伊三次さんは御用の筋でいらしたんですよ。旦那は何か勘違いなすってますね」  喜久壽は緑川に助け船を出すつもりだったようだが、今度は伊三次に「姐さん!」と、荒い声で止められた。 「まあ、どうしましょう。何んて間《ま》の悪い」  喜久壽は口を滑らせたことに気づくと、どうしていいかわからない顔になった。 「何んだ、何んだ。おれに内緒の話があったのか」  緑川は呆れたように伊三次を見た。 「旦那はわたしの方に内緒のことがあるんですかい」  緑川は伊三次の問い掛けを無視して「言え、伊三次。友之進の指図だろう」と早口に言った。 「へ、へい。ですが、旦那のお耳に入れては不破の旦那に叱られやす」 「なぜだ」 「それはそのう……」  うまい言い訳ができなくて伊三次は口ごもった。 「旦那は御用のこととなったら、後先も考えず突っ走るじゃないですか。不破の旦那はそれを心配なすっておられるんですよ」  喜久壽は伊三次の肩を持つように言った。 「それが悪いのか」  緑川はぎらりと伊三次を睨んだ。 「時と場合によります。深く静かに調べを進めることだってあるんじゃねェですか」  伊三次は上目遣いに緑川を見ながら恐る恐る言った。 「それがこの度のことか」 「へい……」 「お前ェから聞いたとは言わぬ。また、先走りもせぬ。だから、話せ」  緑川は執拗に喰い下がった。伊三次はとうとう観念して、ある事件の概要を緑川に語った。  昨年、浅草で十歳ほどの履物屋の子供が斬り殺された。その子供は履物屋の総領息子だった。さる藩の江戸詰めの家臣が酒に酔った上での狼藉《ろうぜき》だった。 「酔狂《すいきよう》に斬り殺し候」と、奉行所の書類に事件のことが記載されたが、相手が武家であるため、町奉行所の取り調べはなかった。子供の両親はそれを不服として家臣が仕える藩邸に非を訴えると、幾らかの見舞金は届けられたが、当の家臣が咎めを受けた様子はなかった。  両親にすれば切腹の沙汰でも承服できないのに、お構いなしでは息子が浮かばれないと悔し涙に咽《むせ》んだ。  そのような時、息子の仇《あだ》を討ってやると両親に囁いた者がいた。相手に一矢《いつし》報いたいと考えていた両親は迷わずそれに縋った。むろん、只ではない。両親は何がしかの金を相手に支払った。人斬り請け負いの一味だった。仲介役は浪人ふうの男であったが、笑助も一枚噛んでいる様子があった。  敵《かたき》の家臣は無残に斬り殺された。内臓がすっかり腹から露出していたほど陰惨を極めた殺され方だった。しかし、子供の両親はようやくそれで溜飲を下げたのである。両親は天罰だと強調しているが、近所の人間は、人を使って仇討ちさせたと噂している。 「笑助はどういう経緯でその仲間に入ったんだ」  緑川は腑に落ちない様子で伊三次に訊いた。 「あのお人は首打ち役の山田様の弟子だったらしいんです。侍の殺され方は、まるで試し斬りをしたみてェだという人がいて……それにどうも、その時に胆《きも》も抜かれていたようなんですよ。そういうことをするのは普通のお侍ェじゃねェと不破の旦那も思われたようです。まだはっきり証拠を掴んでおりやせんので、聞き込みを続けているところです」  伊三次がそう言うと、緑川は低く唸った。  首打ち役、山田|浅《あさ》右衛門《えもん》は代々、処刑場で首斬りをする御用を幕府より仰せつかっている。だが、浅右衛門の正式な役名は御佩刀御試役《ごはいとうおためしやく》と言って、将軍や大名の刀剣の管理をすることであった。処刑された死体で試し斬りをすることもあるので、その仕事の流れから首打ち役も兼務するようになったのだ。山田家はそれだけでも相当の実入りのあることが予想できるが、実は内職で製薬業を営み、こちらの方の収入もかなりのものだった。山田|丸《がん》、浅右衛門丸、人丹《じんたん》と呼ばれる薬で、原材料は人の胆、脂肪等である。処刑された死体から採取したものだった。労咳《ろうがい》を病む者に処方すれば必ず効果があると言われていた。一服百|疋《ぴき》(一両の四分の一・金一分)と大層|高直《こうじき》であるが、客は引きも切らずに買い求めるという。 「ああ、気持ちが悪い」  そう言った喜久壽の顔は少し青ざめていた。 「友之進は山田の家で笑助が弟子だったのを確かめたのか」  緑川は喜久壽をちらりと見てから伊三次に訊いた。 「いえ。本名が知れないので埒は明かなかったようです」  町方の不破が山田家で取り調べをしたのは、浅右衛門が首打ち役とはいえ、身分は浪人とされていたためである。 「あすこの弟子というのは、大抵はどこかの藩に仕えておりやして、その藩の命令で首打ちの修業をしているそうなんです。ですから、弟子の顔ぶれも時々変わりやす。昔のことになると、ちょいと調べるのも骨でしょう。ただ……」  伊三次はそこで言葉を切り、天井を見つめて思案する顔になった。 「何んだ、引っ掛かることがあるのか」  緑川は伊三次の話を急かした。 「死罪の沙汰のあった罪人を斬った夜は、浅右衛門は弟子ともども浴びるほど酒を飲んで馬鹿騒ぎをするそうなんです」 「………」 「幾ら、仕事とはいえ、人斬りは気分のいいことじゃござんせんからね。そうやって憂さ晴らしをしなけりゃ、身がもたねェんでしょう。その時、歌ったり踊ったり、お座敷遊びにもやけに達者な弟子がいて師匠を喜ばせていたそうなんです。不破の旦那は笑助がそいつではないかとおっしゃいやした。まあ、笑助が仕える藩を首になって太鼓になった事情まではわかりやせんが」 「それで太鼓の傍《かたわ》ら、人斬り商売に走り、ついでに人の胆を売り捌《さば》いて金稼ぎか……笑助の一味は履物屋の他に請け負ったものが幾つもあるのか」 「へい。お座敷で太鼓をしながら、客を捜しているんです。話がまとまれば仲間に繋ぎをつけやすので、その辺の事情を探っておりやす」 「履物屋を絞め上げて何かわからぬか」 「さて、それは。お奉行所は履物屋の訴えを、大名屋敷だから了簡《りようけん》しろと最初に蹴っておりやすからね、いまさらお前ェの所が人を使って仇討ちさせたんだろうと問い詰めても本当のことは白状しねェでしょう。大名屋敷の方でも履物屋に文句を言った様子はありやせん。家来が子供を殺したことにお構いなしなら、今度はその家来が殺《や》られても、これまたお構いなしなんですよ。お武家の仕来たりは腑に落ちねェことばかりでござんす……あ、こいつは余計なことを。あいすみやせん」  伊三次は緑川を前にして言い過ぎたと思ったのだろう。慌てて頭を下げた。 「そういうことなら、おれも一度、その笑助という太鼓に会ってみたいものだ。お久《ひさ》、宝来屋に座敷を取れ」  緑川は伊三次のことなど意に介するふうもなく喜久壽に命じた。お久は喜久壽の本名である。 「旦那が身銭を切るんですか」  喜久壽は緑川の懐を心配する。 「なあに。ちょいと面倒を見ている店の主《あるじ》をそそのかすつもりだから案じるな。おう、伊三、そん時はつき合え」 「へい。ところで旦那の内緒話とは」  伊三次は心許ない顔で訊いた。 「お前ェの餓鬼は逆子だそうだ。おれが産科の医者を世話してやったぜ。安心して生まれるのを待つんだな」  険しい緑川の表情が弛《ゆる》んだ。反対に伊三次の顔に緊張が走った。喜久壽は気の毒そうな顔で伊三次を見ていた。      六  宝来屋が用意した座敷は二階の八畳間で、腰高障子の下は栄木河岸《えいきがし》になっていた。大川の向こうからやって来る客は、その栄木河岸に舟を着けて見世に上がる。  伊三次と緑川も栄木河岸で舟を下りた。宝来屋ではひと足早く、浅草で刀剣を扱う道具屋「一風堂《いつぷうどう》」の主が待っていた。主は四十二歳の男盛りで、着物の上に紋付を羽織っていた。商売柄のせいか並の商人とは少し趣が違って見える。緑川の古くからの知り合いだという。愛嬌のある顔に終始笑みを湛《たた》えて話をするが、時々、その表情に厳しいものが走る。  笑助が座敷に現れると、一風堂の表情の厳しさは、いやました。  喜久壽は半玉《はんぎよく》の小《こ》|ぎん《ヽヽ》を伴っていた。小ぎんが踊りを披露する時は傍らで三味線をつける。  相変わらず喜久壽の三味線はいい音色だった。  その三味の合間を縫って、猪牙舟《ちよきぶね》の船頭が艫《ろ》を操る軋《きし》んだ音と、|ちゃぷり《ヽヽヽヽ》と静かな水音が聞こえた。  伊三次の心はその座敷にはなかった。もちろん、緑川や初めて会った一風堂の主を前にして緊張はしていたけれど、ふっと気の抜ける瞬間があった。  宝来屋に行くために、その日は仕事を早仕舞いして佐内町《さないちよう》に戻った。茶の間にお文の姿は見えず、その代わり、お梶《かじ》が台所で大釜に湯を沸かしていた。お梶は小僧の九兵衛の母親だった。 「お梶さん、うちの奴は始まったんですかい」  伊三次は慌てて訊いた。 「ええ。生まれるのはまだまだ先ですけど、あたしは心配性なもんで、取りあえず、お湯だけでも沸かしておこうかと思いまして……」  お梶も落ち着かない様子で応えた。 「世話ァ、掛けます。それで、うちの奴は?」 「奥の部屋ですよ。さっき、お浜さんが駆けつけて来て……九兵衛も麹町の先生を呼びに行きましたから、おっつけやって来ますよ」 「あいつ、大丈夫かな」  九兵衛がちゃんと医者の家に辿り着けるのかと伊三次は心配になる。 「大丈夫ですよ。お内儀さんから何度も道筋を聞いたと言っておりましたから。親方、ちょいと顔を見せてあげたらどうです?」 「へ、へい」  お梶に言われて伊三次は恐る恐る奥の間の襖の前で声を掛けた。  お浜が襷《たすき》掛けの恰好で襖を開けた。中ではお文が床の上で握り飯を食べているところだった。これから長丁場になるので、その前に腹拵えをしているのだろう。しかし、お文はさして食べたそうでもなく無理に口に頬張っているという感じだった。結い上げた髪は、ほどいて後ろで一つに束ねている。 「痛ェのか」  伊三次はお文の顔を見つめながら訊いた。 「いや、まだ痛くはないよ。これからだろう。昼過ぎにお|しるし《ヽヽヽ》が来たんで、慌ててお浜さんを呼びにやったのさ」 「九兵衛も産科の医者を呼びに行った。だから心配することはねェぜ」 「うん……」  お文は子供のように肯く。 「おれァ、これからちょいと緑川の旦那と一緒に出かけなきゃならねェのよ」  そう言うと、お文は心細い顔で「断れないのかえ」と訊く。 「ああ」 「後生だ。今日だけは傍にいておくれ」  お文は今にも泣きそうな顔で伊三次に縋った。 「そういう訳にはいかねェ。なあに、深川で一刻《いつとき》(約二時間)ほど用足しをして戻って来るだけだ」  それでも、お文は納得せず、唇を噛み締めて悔しそうな顔をした。 「お文さん、亭主がいたって何んの用にも立ちゃしないよ。苛々《いらいら》させるだけだ。旦那、早く用を足して戻ってらっしゃいましな」  お浜が威勢のよい声で口添えしてくれたので助かった。お文の肩をぽんと叩いて「がんばりな」と励まして腰を上げた。襖に手を掛けた時、伊三次の背中にお文の声が覆い被さった。 「お前さん、本当に早く戻って来ておくれよ」 「ああ」  伊三次はお文に|にッ《ヽヽ》と笑って奥の間を出た。  お梶にも、よろしく頼むと言って家を後にしたが、ずっとお文の心細い顔が頭に貼りついていた。  泣き言は言わない女である。傍にいてくれと縋ったこともない。お文がそれを口にしたということは、何か胸騒ぎでも覚えたのだろうか。そう考えると伊三次の胸にも不安が募《つの》る。いっそ、松助か弥八に代わりを頼もうかと考えたが、やはり伊三次にはできなかった。  女房のお産に立ち合うのでお上の御用はできやせん、とは口が裂けても言えない。そんなことは男として末代までの恥だと伊三次は考えている。馬鹿な意地だ。  だが、お文にもしものことがあったら、亭主として傍にいなかった自分を生涯責めるだろう。その時は──  伊三次は唇を噛み締めて心に誓った。小者の仕事を退《の》く。たとい、不破にどれほど引き留められても意地を通す。女房一人を助けられなくて、何がお上の御用だと思う。  伊三次は自分の人生の帳尻をそういう形で合わせようとしていた。 「ええ、笑助でございます。いらっしゃいやし。コンチお日柄もよろしくて」  笑助は自分の前に扇子を置いて如才ない挨拶をした。縹《はなだ》色の無地の着物にこなれた紋付羽織、坊主頭を振りながら一風堂の主と緑川、それに控えめに座っていた伊三次にすばやい視線を向けた。武家上がりだけあって幇間にしては鋭い眼をする。だが、その目つきには卑しい色があった。一風堂も似たような眼をするが、とても笑助とは比べものにならない。前には見えなかったことが今は見える。笑助を怪しいと睨む理由の一つにもなった。浅黒い膚には幼い頃に疱瘡《ほうそう》でも患ったのか薄|あばた《ヽヽヽ》が目立つ。小柄な身体はしっかりとした肉がついていた。滋養のある山田丸の効果か、それとも獣の薬喰いのせいだろうか。 「おう、待ってたぜ。ささ、こっちへ来い」  緑川は笑助を中へ促した。 「お初にお目文字致しやす……おや、こっちのお若いお兄さんは、先日もお越しで」  笑助は伊三次の顔を覚えていたようだ。 「へい。この間は信濃屋さんから呼ばれやしたが、本日は一風堂の旦那のお伴で参じやした」 「一風堂……」  笑顔がふわりと消えた。 「師匠はちょいと見た顔だと思いますが、以前にどこかでお会いしていましたかな」  一風堂・越前屋醒《えちぜんやさむる》はそしらぬふうを装って訊いた。笑助は持っていた扇子でぴしゃりと額を打った。 「世間は狭いものでございますねえ。なにね、|あちし《ヽヽヽ》はこれでも元は二本差しでございまして、その当時は一風堂さんで脇差なんぞを誂《あつら》えたことがあるんでございますよ。十年も前のことでございますかねえ」  笑助が武家上がりだったのは、その言葉で確実となった。 「ほうほう」  緑川が興味深そうな眼で相槌を打った。 「こちらの苦味走った旦那は一風堂さんのご贔屓さんでございますか」  笑助はすぐに緑川の素性に当たりをつける。 「しがねェ草履取りよ。旦那のお伴で深川行きとしゃれ込んだってことだ。お前さん、元は二本差しだってことだが、何が悲しくて太鼓になったのか、とくと聞かせてくんねェな」  緑川は盃をぐびりと飲み干すと、盃洗《はいせん》ですすぎ、笑助に差し出しながら訊く。 「やなことをお聞きになりますねえ。あちしはお務めよりも落語や音曲が好きでしてね。こう見えてもあちし、一中節の名取りで、坂東流の踊りも名取りなんですよ。役者の声色も得意でね、お前はヨイショがうまいから太鼓になれと勧められて桜川の師匠の所へ弟子入りしたんですよ。もう、そん時はお屋敷のお長屋にも戻らなくなっていましたから、当然、お務めは首ですよ」  首というところで、笑助は自分の首を扇子で打った。他の太鼓なら何気ない仕種が、笑助だと妙な気がする。山田浅右衛門の弟子だと聞いているせいだ。 「ところが旦那、太鼓と申しましても、これが結構、大変な修業でございまして、師匠は何んにも教えてくれないんでございますよ。何かと言うと、このくそたらし。はい、ごめんなさいよ、|ばば《ヽヽ》喰ってる時、飯の話をしてしまいまして」  飯を喰ってる時、ばばの話をするなを引っ繰り返して言う。 「もう、くそたらしばっか」 「だから、何くそと修業に精を出したってか」  緑川が揶揄するように言って笑う。 「何おっしゃるんですか、旦那。太鼓のお株を取っちゃいけやせんよ」  笑助はさり気なく緑川をいなした。 「ですが、師匠は渡りの太鼓と聞いておりやす。そいつは元の師匠の所からも離れたってことですかい」  伊三次はさり気なく口を挟《はさ》んだ。 「これもねえ……あちしは浅草の馬道《うまみち》の見番《けんばん》からお座敷に出るようになったんですが、あちしはそこで芸者の姐さんにちょいと|ほ《ヽ》の字になっちまいまして、相手もあちしのこと憎からず思っておりやしたので、いちゃいちゃしている内に師匠に見つかってしまったんですよ」 「あちゃあ、それはお前ェ、掟《おきて》破りじゃねェか」  緑川は呆れたように言う。確かに、花柳界で幇間が芸者に手を出すのは御法度である。  やはり、玄人の幇間ではないと伊三次は心の中で思った。 「そうなんですよ。それで師匠の所もこれ」  笑助はまた扇子で首を打った。  しばらくは銚子の酒を差しつ、差されつやり、喜久壽も得意の三味を弾きながら一中節を披露した。酒の駄目な伊三次は喜久壽が気を利かせて用意させた茶を飲んでいた。 「おう、ここらでお前も何かやれ」  一風堂はしばらくして笑助に命じた。笑助は、その言葉に気軽に応じて畳半畳を使った踊りを披露した。座敷の大きさによって踊りの種類を変えるのも幇間の芸である。 「さて、それでは、|どでごんす《ヽヽヽヽヽ》の見立てなどを」  踊りが終わると、笑助は帯に挟んでいた莨《たばこ》入れを取り出した。古渡《こわた》り更紗《さらさ》に達磨《だるま》の金具のついたもので、伊三次の目にも高価な物に思えた。  喜久壽が賑やかに三味線を掻き鳴らした。  お座敷での喜久壽と緑川は周りの者に微塵もその仲を疑わせるものはない。当たり前のことと思いながらも伊三次は感心した。  お文の白い顔が突然、ぽっと伊三次の脳裏をよぎった。 「あっソレ、あっコリャ、これをちょっくらちょいとこうやって……挟み箱はどでごんす」  莨入れの上に閉じた扇子を置いて挟み箱に見立てる。どでごんすの見立ては少し前に酒席で流行った遊びである。その頃は盃と箸でやっていたから、莨入れと扇子は新工夫なのだろう。笑助は挟み箱の次に扇子を少し開いて下向きにし、それを莨入れの後ろへ回し、扇の要を少しだけのぞかせて「紙雛《かみびな》でござります」と続けた。 「あっソレ、あっヨイショ」  喜久壽は合いの手で景気をつけた。笑助はひょうきんに身体を揺すって「ちょっくらちょいとこうやって」と、調子に乗る。 「的の見立てはそれよしか」 「妙義のお札はどでごんす」 「猫の皮(三味線)じゃと思わんせ」  次々と見立てを披露した。そう言われるとなるほどそうだと思ってしまうから不思議である。  見立てが終わると笑助は額を手拭いで押さえた。すっかり汗をかいていた。一風堂は笑助に銚子を勧めた。 「師匠は確か、山田様のお弟子さんでもあられましたな」  低い声で一風堂は言った。その眼は笑っていなかった。 「全く旦那には敵いませんね。首斬り浅右衛門の所で修業していたのは、ほんの二年ばかりのことですよ」  笑助は取り繕うように応えた。 「それは何かい、お前ェが自分から頼んで弟子入りしたのかい」  緑川は|つっ《ヽヽ》と膝を進めて訊く。伊三次は内心、ひやひやする思いだった。あまり話を急かしては笑助に不審を抱かせる。先走らないと約束したくせに、結局緑川はこうだ。 「いえいえ。それは仕えるお屋形様のご命令ですよ。国許で死罪に相当する者を処刑する時、首打ちの心得がなけりゃ、いたずらに苦しませるだけですからね。そいで、お前が習って来いと言われたんですよ。もっとも、あちしの国では何十年も首打ちなんざは行われていませんので、あちしの覚えたことは宝の持ち腐れでしたよ」 「そうでもねェだろう」  緑川は低い声で言った。笑助は言葉に窮した。座敷にはしんとした静寂が漂った。  太鼓失格。伊三次は胸で呟いた。お座敷を白けさせては太鼓の風上にも置けない。喜久壽は小ぎんに目配せした。小ぎんはこくりと肯くと、そっと座敷を出て行った。 「あちしに何か特別な御用でも……」  しばらくして笑助は真顔で緑川に訊いた。  笑助はまだ緑川の意図に気づいていなかった。それどころか、人斬り請け負いの方かと早合点している。多分、笑助は仲間に仕事を急かされて焦っていたのだろう。仲間は何人いるか知れないが、ひと仕事終えて金を手にしても、ただ、飲み喰いしているだけでは、いずれ金に詰まる日はくる。 「人をな、殺《や》って貰いてェのよ」  緑川は直截《ちよくせつ》に言った。 「旦那!」  伊三次の声が弾《はじ》けた。緑川がそんなふうに出るとは思いも寄らなかった。だが、笑助は目顔で伊三次を制した。喜久壽も三味線を抱え、そっと座敷から出ようとした。 「喜久壽、このことは他言無用だぜ。もしも口を割ったら、お前ェも只じゃ済まねェぜ」  緑川は喜久壽を脅《おど》すように言った。喜久壽は黙ったまま、こくりと肯いた。喜久壽の方が笑助より、よほど役者が上だった。  そこから始まった拵《こしら》え話の百万|陀羅《だら》。男に弄《もてあそ》ばれた娘が井戸に身を投げた。男の方は家つき娘の婿に収まる。娘の両親は悔しさに夜もろくに寝られず、母親はとうとう床に就いた。何んとかして仇を討ちたい。そのためなら千金、万金を積んでも惜しくはないと。 「承知致しやした」  笑助は話を聞き終えると、しゃがれた声で言った。 「その前に仲間に手付けを打って下さいやすか」  笑助は抜け目なく言葉を続けた。 「仲間は何人おるのだ? 取りあえず、一人十両ずつで間に合うか」  一風堂はさり気なく訊いた。 「十分でございます。あちしを入れて五人ですんで、都合、五十両。首尾よく行ったあかつきには、いかほどご用意していただけますでしょうか」 「そうさなあ、一人当たり五十両でどうだ。しめて三百両の仕事だ。もっとも、こっちも幾らかいただくつもりだから、それで手を打て」  緑川は有無を言わせぬ態度だった。笑助がひょいと眉を上げたのは千金、万金を積むと言った割に金額が少ないと感じたからだろう。  伊三次の胸がひやりとした。 「仲間に繋ぎをつけるには、ちょいと日にちが掛かるな。先様にはいつ頃、片がつくと言ったらいいんだ」  だが、緑川は意に介するふうもなく続けた。 「なあに、仲間は深川におりやすので、あちしはお座敷が終わってから話をして参りますよ。ご心配はいりません」 「ほう、深川とな? それは好都合。この近くか」  緑川は涼しい顔で訊く。 「冬木町の仕舞屋《しもたや》が空き家になっておりますんで」 「師匠、それは伊勢屋のことですかい」  伊三次はふと思い出して言った。 「兄さん、伊勢屋さんをご存じで」  笑助は怪訝な眼になった。笑助の仲間は商売をやめた伊勢屋忠兵衛の店を勝手に使っていたようだ。短い吐息をついて俯いた伊三次に笑助はようやく不安を覚えたらしい。二流の太鼓、いや三流か。 「そいつは伊勢屋に断りを入れている話じゃねェな。困ったことをしてくれたもんだ」  緑川の言葉に笑助は慌てて「すぐにショバ替え致します」と応えた。 「なあに、それには及ばねェが、こいつはちょいと危ねェ橋に思える。悪いが気が変わった。師匠、さっきのことは忘れてくれ」 「そんな……」  笑助が謀《はか》られたと気づいたのは、その時だろう。伊三次は腰を浮かして膳の前から離れ、後ろの壁に背中をぴたりと寄せた。緑川は反対に膳を脇に寄せ、笑助の傍に近づきながら、おもむろに帯の後ろから十手を取り出した。  笑助は何も応えなかったが顔色は紙のように白かった。  慌てて懐に手をやったが、一風堂がそれより一瞬早く、笑助の腕を取り、逆手にねじ上げた。一風堂に柔術の心得があったことを伊三次はその時知った。  笑助は痛みに顔をしかめた。伊三次は無言で笑助に縄を掛けた。 「手前ェ、犬だな。ずっとおれを探っていたのか」  笑助は伊三次の顔を睨みながら訊いた。 「いえ……師匠、幾ら太鼓をしていても昔は消せやしませんぜ。あんたのその眼がいけねェ。太鼓にしちゃ、おっかねェのよ。そいつが墓穴を掘ることになったんでさァ。まだ修業が足りやせんでしたね」  伊三次がそう言うと、一風堂はからからと愉快そうに笑った。 「全くだ。まさか、ここでお前ェをお縄にできるとはおれも思わなかったぜ」  緑川も思わせぶりに言った。笑助が低い声で「修業し直してめェりやす」と呟いた。 「一風堂、座敷の掛かりは要らねェぜ」  緑川は腰を上げた一風堂に言った。 「いやいや、当節、珍しいほどのおもしろい趣向でございました。ついでに祝儀をつけますよ。師匠、これはあんたに」  一風堂は笑助の懐に祝儀袋をねじ込んだ。 「銭なんざ、いりやせん」  笑助はその時だけ憮然として吐き捨てた。 「小伝馬町じゃツルが要るぜ」  緑川は訳知り顔で言った。小伝馬町の牢に収監されたら、牢名主に幾らか銭を差し出さなければならない。緑川はそれを言ったのだ。  階段を下りて行くと、縄で縛られた笑助に誰しもぎょっとした顔になった。内所から宝来屋のお内儀が出て来て「何んなの、どうしたって言うんですか!」と、わめいた。喜久壽がお内儀の傍に行って、宥《なだ》めた。  笑助は茅場町の大番屋に送られる。それから奉行所に連絡を取って冬木町の仲間もしょっ引くのだ。感づかれては困るので、迅速に処理しなければならない。  栄木河岸で屋根舟を待つ間、三人は桟橋に立っていた。居合わせた客は恐ろしそうな顔で三人を眺めていた。  桟橋の隅に九年母《くねんぼ》の皮と折れた杉箸が落ちていた。夜目にも九年母の橙《だいだい》色が鮮やかだった。恐らく、客が舟に乗り込む時に打ち捨てたのだろう。  笑助は所在なげにその九年母の皮と箸を見ていたが、「旦那」と、緑川に低い声を掛けた。 「ん?」  緑川が振り向くと、笑助は九年母に顎をしゃくり「月に霞はどでごんす」と、薄く笑った。九年母を月に、折れた杉箸を霞に見立てていた。笑助の最後の芸だった。      七  笑助を大番屋に収監してから、奉行所では出入りがあった。捕り物装束の吟味方の与力、同心、中間が一団となって深川を目ざした。  伊三次は大番屋から不破の組屋敷に向かい、事情を説明した。不破は大層、驚いた様子だったが、伊三次が内緒にしていたことに対して、特に小言はなかった。 「それより……」  不破は俯きがちになった。 「佐内町から何度も使いの小僧が来ていたぜ」  伊三次の顔を見ずに言う。戻りが遅いので九兵衛は心配になって八丁堀まで捜しに来ていたらしい。 「早く帰ってやんな」  不破は静かに言った。 「まだ、生まれておりやせんか」 「ふん、まだのようだ。ずい分、苦しんでいる様子だ。可哀想にな」  仏間の方から鉦《かね》の音が聞こえた。いなみがお文の無事を一心に祈っている様子だった。  伊三次のこめかみから脳天に掛けて訳のわからない痺《しび》れが走った。気持ちを落ち着かせるため伊三次は大きく息を吸った。 「旦那、男なんざ、何んの役にも立たねェもんですね。亭主面したところで、こんな時はおろおろするばかりで」 「いかさまな……」  不破は低く相槌を打つ。 「へ、珍しく旦那の気持ちと合わせ鏡だ。だが、餓鬼とお文にもしものことがあったら……」  言い掛けた伊三次を不破はぎらりと睨んだ。 「そんなことは考えるな。考えたって始まらねェ」 「ですが……」 「早く帰ってやんな。女房が待ってるぜ。十月《とつき》十日も腹に抱えて、そいで身体ァ、引き裂かれる思いで餓鬼をひり出すのよ。てェした苦労だ。それに比べ、お前ェの苦労は|ちょん《ヽヽヽ》の間だったろうが」  不破は下卑《げび》た冗談を言った。 「無事に生まれたら名付け親になって下せェ」 「心得た」  ふわりと笑った不破に伊三次も笑顔を返してくるりと背を向けた。組屋敷の外に出ると伊三次は着物の裾を端折《はしよ》り、一目散に佐内町を目ざして走った。  家の前で足が止まった。周りの家々は灯りを消して床に就いた様子である。伊三次の家も雨戸を閉《た》てていたが、潜《くぐ》り戸だけは開いていて、そこから中の灯りが暗い地面を照らしていた。伊三次が足を止めたのは、その灯りのせいではなかった。けだものじみた呻《うめ》き声が家の外まで洩れていたためである。  それがお文の口から出ているものと信じたくはなかったが、紛れもなくお文のものだった。伊三次は油障子の引手に手を掛ける時、思わず眼を閉じた。それから唇を噛み締めた。 「親方!」  伊三次の姿を見ると、竈《かまど》の前にしゃがんでいたお梶は慌てて立ち上がった。切羽詰まった顔だ。産婆のお浜は大黒柱を両手で押すようにしていたが、お梶の声にふっと顔を上げた。 「お浜さん、どうしてうちの奴の傍にいねェのよ」  伊三次は怒気を孕《はら》ませた声でお浜に言う。 「旦那、もう、あたしの手には負えないんですよ。後は先生にお任せするしかないんです」  お浜は涙声で応えた。伊三次は奥の間の閉じた障子を見つめた。富田黄湖の叱咤激励する声が切れ切れに聞こえた。お文の呻き声に比べ、馬鹿に呑気に感じられた。  伊三次が奥の間へ入ろうとすると、お浜は慌てて「旦那、見るもんじゃありません!」と、悲鳴のような声で叫んだ。 「うるせェ!」  伊三次は構わず「ただ今、戻りやした」と、中へ声を掛けた。 「ああ、ご亭主か。ちょいとお内儀さんに声を掛けて差し上げて下さい」  黄湖は意外にもそう言った。恐る恐る襖を開けた伊三次の眼に黄湖の坊主頭が映った。  黄湖はお文の股の間にかがみ込むような恰好でいた。お文の呻き声は止まない。 「お文、しっかりしろ」  薄目を開けて伊三次を見たお文の額には赤い斑点がぽつぽつとできていた。斑点は眼の下にもある。いきんだために顔の血管が切れたのだ。 「殺せ、殺せ」  お文はわめく。黄湖は、いきなりお文に平手打ちを食らわせたので伊三次はぎょっとした。 「お前ばかりが苦しいのではない。赤ん坊も苦しいんだ。お前が投げ出しては誰が赤ん坊を守るのだ。お前は母親なんだぞ」  黄湖の眼も血走っている。 「ご亭主、お内儀さんの頭へ回り、しっかり腕を支えて下さい。そうすれば力が出ます」 「へ、へい」  伊三次はお文の頭の上から腕を取ろうとすると、お文がそれより先に伊三次の手首を掴んだ。凄い力だった。踏ん張っていなければ、そのままお文の身体の上に倒れて行きそうになる。 「おお、少し休め、休め」  何かお産の呼吸があるらしく、黄湖は途中でお文を制する。お文の緊張が弛み、つかの間の眠りに落ちる。伊三次が傍にいることで幾分、その表情は和らいでいるようにも見えた。  誰かが外からやって来た様子があった。お浜とお梶に事情を聞いて「まあ、まあ……」と困惑した声がする。伊三次の姉のお園《その》だった。 「姉ちゃん!」  伊三次はお文に手首を掴まれて身動きできない恰好のまま、お園に呼び掛けた。  遠慮がちに開けられた襖からお園の顔が覗いた。 「姉ちゃん、助けてくれ」  姉を前に伊三次の気も弛む。甘えたような声になった。 「がんばるんだよ。向こうで待ってるからね。お文ちゃん、これ、お文ちゃん。しっかりおし」  お園は疲れ果てたお文にも声を掛けた。お文は眼を閉じたまま肯いた。お園は襖を閉じるとお梶とお浜の所へ戻った。 「満ち潮は何刻《なんどき》だろうねえ」  お園が二人へ訊ねるのが聞こえた。 「先生、満ち潮の時刻に赤ん坊が生まれるんですかい」  伊三次はお文の腹を摩っている黄湖に訊いた。 「まあ、そう言われております。月の満ち欠けが人間の身体にも影響するのでしょうな。不思議なものです、天然自然の理は」  黄湖はしみじみとした口調で言った。  八つ(午前二時頃)を過ぎると、伊三次にも疲れが出て、ふっと睡魔に襲われることがあった。しかし、お文の呻き声ですぐに目覚めさせられる。黄湖だけは疲れを知らない表情だ。体格がいいだけ体力もあるのだろう。  いつ終わるとも知れない長い待機の末、ついに黄湖は「さ、生まれます。お内儀さん、いきんで下さい。もっと、それもっと!」  あッ、あッとお文が連続した声を上げると、黄湖は、まるで押し入れから頭陀袋《ずだぶくろ》でも引き出すような感じで赤黒い肉の塊《かたまり》を取り上げた。  小さな咳き込みの後、その塊はお文の呻き声にも負けない産声を上げた。 「お前さん!」  お文は潤んだ眼をして伊三次を見上げた。 「まだまだ……」  黄湖は感きわまった様子のお文を制し、臍《へそ》の緒を切るとお浜を呼んだ。部屋の外から溜め息とも歓声ともつかない声が聞こえた。 「先生、お見事でございました」  お浜は黄湖にねぎらいの声を掛ける。 「いやいや。ついでに後産《あとざん》もやってしまいましょう」  黄湖は赤ん坊を手渡そうとしたが、ふと、お文と伊三次の方を振り向き「ほれ、坊ちゃんですよ」と、目の前にかざした。  糊《のり》の瓶《かめ》から出て来たような赤ん坊はお世辞にも可愛いとは言えなかった。伊三次は情けない顔で笑った。 「さあ、ご亭主。ご苦労様でございます。もはやお引き取り下さい」  いつまでもそこにいる伊三次に黄湖は苦笑混じりに命じた。  黄湖は産湯を使って小ざっぱりした赤ん坊を確認すると、「まれに見る難産でした。しかし、無事に生まれたということは、よほど運の強いお子さんなのでしょう。大事に育てて差し上げて下さい。施術料は後ほどご請求致します」と、事務的に言って帰って行った。  伊三次は通りの外まで黄湖を見送った。夜は白々と明け、朝靄《あさもや》が佐内町の通りに立ち込めていた。  伊三次は大きく伸びをして空を仰いだ。そこには白っぽい月が残っていた。伊三次は笑助の見立てをふっと思い出したが、昨夜のことが遠い昔のことのようにも感じられる。父親となった伊三次の気分は悪いものではなかった。自然に笑いが込み上げた。  だが、ほのぼのとした気分はつかの間だった。翌日からは生まれた赤ん坊にしょうことなく巻き込まれ、ひと息つく隙《すき》もなかった。  それにもまして黄湖からは目の玉が飛び出るほどの施術料を請求され、伊三次は呆然とした。何につけても金の世の中。伊三次はまた必死で稼がなければならない。 [#改ページ]   黒 く 塗 れ      一  外は真夏の陽射しが眩《まぶ》しく降り注いでいる。  日本橋は佐内町の伊三次の家は、午前中なら、まだしも凌《しの》ぎやすい。しかし、西陽が照りつける午後は、蒸し風呂のような暑さになる。  外に出かけることもないので、お文は終日浴衣一枚で過ごしていた。傍《そば》には生まれたばかりの伊与太《いよた》が夏蒲団の上に転がされていた。  |むつき《ヽヽヽ》の他は腹掛け一枚である。乳を飲んでは眠り、目覚めてはまた飲むという繰り返しである。手が掛からなくていい子だと、近所の連中は褒《ほ》めるが、夜中でも一刻《いつとき》おきに乳をやり、むつきを取り替えなければならないお文の苦労は相当のものだった。  床上げするまでは伊三次の姉のお園が泊まり込んで面倒を見てくれた。子供を五人も育てているお園の手際《てぎわ》はさすがによい。お文は安心して産褥《さんじよく》に就《つ》いていた。だが、お園もお文が床上げすると、途端に家のことを思い出した様子で、さっさと帰ってしまった。お文は、いよいよ自分で息子の面倒を見なければならなくなった。  赤ん坊の世話が大変なのは覚悟していたが、まさかこれほどとは思わなかった。  産婆のお浜が朝に伊与太に湯を使わせに来る時と、小僧の九兵衛の母親が様子を見にやって来て、少しの間、子守をしてくれる時だけ、お文はふっと息をつける。その他は全く自分の時間がないのだ。 「今はまだいいんですよ。これがよちよち歩き出してごらんなさいな。全く目離《めばな》しできなくなるんですから」  九兵衛の母親のお梶はそんなことを言う。  冗談じゃない、とお文は思う。これ以上、忙しい目に遭《あ》わされてはたまらない。お文は子を産んでみて、自分がさほど子供好きではないことがわかった。よその女房は嬉々として「さあさ、シーシーを取り替えましょうね」だの、「はい、おっぱい、おっぱい。坊《ぼう》はおなかが空きましたねえ」などと、猫撫で声で言っている。  お文にはそんな余裕がない。伊与太が乳を欲しがって泣くと、「お待ち、ちょいとお待ちったら。今行くからさ」と、いらいらした声で応える。  乳が欲しいとなったら、つかの間さえも伊与太は待ってくれない。凄《すさ》まじい泣き声を上げる。 「ちょいと、泣きたいのはおっ母さんの方だよ。待っとくれってば……」  お文は困り顔をして伊与太を抱き上げ、襟元《えりもと》をこじ開ける。伊与太がそれを口にして、ようやく泣き声から解放されるが、お文は厠《かわや》にもゆっくり入っていられないのだ。  一日、溜め息を何度つくだろうか。  深川にいた頃、仕事が忙しい伊三次を待って、切ない溜め息をついたこともあったが、その溜め息とは全く種類の違うものだ。余計なことを考える隙もない。これが母親になるということかと、お文はつくづく思う。  だから、仕事を終えた伊三次が家の土間口に入るやいなや、お文はまるで鞠《まり》でも放るように伊与太を渡す。 「お、おい、手ェぐらい洗わせてくれよ」 「抱いてもできるだろう? わっちは|まま《ヽヽ》の仕度をしなきゃならないんだ」  お文はそう言って竈《かまど》の前に立つ。商売道具の入った台箱を茶の間に置くと、伊三次は伊与太を抱え、不自由な恰好で手を洗い、口を漱《すす》ぐ。  飯を食べる時も伊三次は伊与太を抱えたままだ。汁でもこぼそうものなら、お文は眼を吊り上げて怒る。 「ちょいと、伊与太に火傷《やけど》させたらどうするつもりだ」  伊三次は、あい、あい、と素直に謝り、まだ虫のように小さな息子を情けない顔で見るのだった。  全く、赤ん坊一匹で家の中が引っ繰り返ったような騒ぎである。  だが、仕事を終え、家に戻って伊与太の顔を眺めるのを、伊三次は大いに楽しみにしているようでもあった。  その楽しみが一瞬で終わり、後が地獄だとしても。      二 「どうだね、伊三次さん。赤ん坊ができると忙しいもんだろう」  箸屋《はしや》の主《あるじ》、翁屋八兵衛が訳知り顔で訊く。 「ええまあ……」  伊三次は曖昧《あいまい》に応えた。  翁屋の内所で伊三次は八兵衛の髪を結っていた。今夜、八兵衛は取引先の接待があるという。柳橋の料亭から夕涼みを兼ねて舟を出すらしい。 「大川の上は幾らか涼しいんでしょうね」  伊三次は手を動かしながら羨《うらや》ましいような口ぶりで言った。 「なあに。狭い屋形船の中で飲んで騒いじゃ、却《かえ》って暑苦しいというものだ。涼みにも何もなりゃしない。もっとも、こっちは何んとか商いを続けて貰いたい魂胆だから、最初《はな》っから冷や汗のかき通しだがね」 「ご冗談を」  伊三次は笑いながら八兵衛をいなした。 「うちの親父は、今でこそ温厚な顔をしているが、昔はあれでかなりきつい人だったよ。たとい、宴会といえども、ぼんやりなんざ、していられなかった」 「実の息子でも気を遣うもんですかね」  伊三次は元結《もつとい》を八兵衛の髷に巻きつけながら訊く。 「そりゃそうだよ。一旦、店に出たら親子なんてことは忘れているよ。いや、他の奉公人なら、店が終われば手前ェの時間もあるが、わたしは、そうはいかない。茶の間で顔を突き合わせていなきゃならないんだからね。くどくどと小言が続くことが多かったよ」 「………」 「ねえ、客が何気なく、しかし、あれだなあ、と呟くことがあるだろ? こっちは何があれなのか見当もつかないから黙って客の話の続きを待っているわな。すると、うちの親父はそれが駄目だと言う。客が何気なく喋ることにも大事な手掛かりがあるから、すぐさま、何んですか、と訊き返さなきゃならないと言うんだよ。へえ、へえと相槌を打つだけじゃ、相手は話をする気も失せるから、そこはぐっと突っ込めってね」 「なるほど」  伊三次は八兵衛の父親に心底、感心した。  客は自分の話をしたがるものだ。それを真剣な表情で聞くことで、相手から信用され、好感を持たれる。伊三次にとっても勉強になることだった。 「しかしねえ……」  言い掛けて八兵衛は言葉を濁した。伊三次は慌てて「何んですか」と、続きを急《せ》かした。八兵衛は含み笑いを洩らした。 「そうそう、その要領だよ。しかし、意気込んで訊いた割にはつまらないことも多かったよ」 「………」 「相手が上方《かみがた》の人間の時も勝手が違って困ったねえ」 「やはり、土地柄の違いがありやすかい」 「所変われば、品変わるだよ。向こうの人は商いが目一杯で、もはや、にっちもさっちも行かなくなると、わし、|げろ《ヽヽ》出そうやわ、と言うことがあるんだよ。本当に吐きそうなのかと心配すると、にいちゃん、もののたとえでんがな、とこうですよ。冗談と本気が微妙に入り混じっているから、その区別がなかなか難しい」  八兵衛は昔を思い出して苦笑した。 「旦那はそういう修業をしたからこそ、今では江戸でも指折りの分限者《ぶげんしや》と言われるようになったんですよ。わたしはそう思いますよ」 「嬉しいことを言ってくれるねえ。だが、生きていると何かと悩みは尽きないものさ。わたしが滞《とどこお》りなく息子に店を渡せるかどうかも心許ない」 「それこそ、ご冗談を。旦那に限ってそんなことは決してありませんよ」  伊三次は言葉に力を込めた。八兵衛は伊三次の愛想に応えなかった。そのまま何事かを思案する表情になった。 「へい、でき上がりやした。いかがさまで」  八兵衛の頭が結い終わると、伊三次は手鏡を差し出して威勢のよい声を上げた。 「ありがとうよ。お蔭でさっぱりした」  八兵衛は低い声で礼を言った。手間賃はまとめて、晦日《みそか》に集金することになっている。  その日によって八兵衛ばかりでなく、父親の九兵衛《くへえ》や息子の七兵衛《しちべえ》の頭もやることがあったからだ。 「旦那、何かご心配なことでもありやしたかい」  伊三次は台箱に道具を片づけながら、さり気なく訊いた。思案顔をしていた八兵衛が少し気になっていた。 「あんたはお上の御用もしているから、滅多なことは言えないよ。話が大袈裟になっても困るし……」  縋《すが》りたいけど縋れない。八兵衛の口調には歯切れの悪いものが感じられた。 「水臭ェことはおっしゃらねェで下せェ。わたしは旦那と同じ町内に住む者ですよ。しかも、今はこうして旦那に仕事を貰っておりやす。何んでも打ち明けておくんなさい。力になりやす」  伊三次がきっぱりと言うと、八兵衛は長い吐息をついた。  それは八兵衛の妻の|おつな《ヽヽヽ》に関することだった。おつなは五十八の八兵衛より八つ下の五十である。  若い頃は二年ばかり大名屋敷に女中奉公に出たことがあるという。そのせいで、おっとりして、どことなく品もある。八兵衛の父親は、そんな女に箸屋の女房はつとまらないと、最初は反対したそうだ。だが、見合いした八兵衛は一目でおつなが気に入り、何が何んでも、縁談を進めてくれと九兵衛に縋ったという。父親の心配も無理のないことだったので、八兵衛はおつなの家に日参して、箸屋の女房の心構えを懇々と説いた。  おつなは、あたしは何もわかりませんから、すべて八兵衛さんのおっしゃる通りに致します、と健気《けなげ》に応えたという。  おつなは、少し気の利かない点を除けば、舅《しゆうと》、姑《しゆうとめ》にも孝養を尽くし、奉公人に対しても優しい心遣いを見せた。しくじりをして叱られた奉公人には一緒になって謝ってくれる。  お内儀さんがいなかったら、とても奉公は続かなかったろうという者も少なくない。  そんなおつなであったが、春先から様子がおかしいという。始終ぼんやりして、心ここにあらずの態《てい》らしい。掛かり付けの医者に相談すると、医者は心配しなくてよいと応えた。何んでも閉経を迎える頃の女にまま見られる症状だそうだ。意味もなく塞《ふさ》ぐ時があるらしい。  そんなものかと、しばらく放って置いたら、番頭から、おつなが店の金を持ち出していると囁かれた。どうやら、月に一度の寺参りの時に事を起こすらしい。八兵衛は思わず眼を剥《む》いた。おつなに限ってそんなことはある訳がない。  慌てて問い詰めると、おつなは身に覚えがないと答えた。その表情は嘘をついているようにも見えなかった。番頭が自分の不始末をおつなに被せているのかとも思った。番頭は自分が疑われていると知ると、涙をこぼして八兵衛に喰って掛かった。それほど信用できないのなら首にしてくれとまで言った。八兵衛は興奮した番頭を宥《なだ》めて、とにかく思い留まらせた。  だが、おつなは今でも、そっと金を持ち出しているらしい。八兵衛は困り果てた。今更、三十年も連れ添ったおつなを離縁したくない。しかし、こういうことが続けば、見過ごすこともできない。 「お内儀さんは、その金を寺に運んでいるんですかい」  伊三次は気になって訊いた。八兵衛は力なく首を振った。寺に問い合わせたが、過分な物は受け取っていないという。 「女房の実家の寺は浅草にあります。毎月の母親の命日には朝から出かけますが、その時、女中が一人、伴をします。わたしは、その女中に眼を離すなと言いますが、おつなは境内に入ると、汁粉でも食べておいでと女中に言うそうなんですよ。女中はおつなの機嫌を損ねたくないわ、汁粉は食べたいわで、つい、言う通りにしてしまうんです」 「その寺でお内儀さんは誰かと会っているんですかい」  伊三次が言うと、八兵衛は黙った。不義密通、重い言葉が伊三次の脳裏を、つかの間|掠《かす》めた。 「旦那、お内儀さんをしばらく張らせていただきやす」  伊三次は低い声で言った。 「伊三次さん、わたしは事を荒だてたくないんだ!」  八兵衛は切羽詰まった声を上げた。 「ようくわかっておりやす。お内儀さんのことをどうするかということより、お内儀さんが持ち出した金の行方を先に探りやす。そいつが肝腎なことですよ」  そう言うと、八兵衛は納得したように肯いた。  翁屋の勝手口を出る時、おつなが井戸の傍で花屋から買った花を水切りしているところだった。やけに紅の花ばかりが眼についた。 「お邪魔致しやした」  背中に声を掛けると、おつなは驚いて振り返り「ご苦労さま」と、短くねぎらいの言葉を言った。その表情には何んら、不審を感じさせるものはなかった。      三  驚いたことに、おつなの実家の菩提寺は、以前、年寄りを無理やり蓮華往生させていた天啓寺《てんけいじ》と目の鼻の先だった。  あの時、隠密廻《おんみつまわ》り同心の緑川平八郎は自ら囮《おとり》となって天啓寺の秘密を暴《あば》いたのだ。囮になるに当たり、八兵衛にも大層世話になった。  天啓寺で八兵衛の父親を大蓮華に上げるという手はずを調《ととの》えたからだ。もちろん、大蓮華に上がったのは変装した緑川だった。  八兵衛の協力なしには、あの事件は解決しなかっただろう。  天啓寺には八兵衛とおつなも同行したが、おつなは芝居だとわかっているのに、まるで本当に舅と今生の別れでもするかのように涙に咽《むせ》んだ。  伊三次は、舅思いのおつなに感心したものだが、八兵衛の打ち明け話を聞かされた後では妙な心持ちもしていた。おつなは、どうも思い込みの強い女に思われて仕方がない。  八兵衛は天啓寺のことなど、とっくに忘れている様子だった。もっとも、伊三次もその寺、仏光寺《ぶつこうじ》の前に立つまでは忘れていた。  浅草寺の周りは寺町で、多くの寺がひしめくように建っている。町家よりも寺の方が目につく。天啓寺の真向かいに仏光寺があったとしても何んら不思議はないのだが、伊三次はなぜか因縁めいたものを感じた。  天啓寺は寺社奉行所の裁きを受け、今は誰もいない廃寺となっていた。問題となった大蓮華も取り外されている。  仏光寺は浄土真宗の寺だった。おつなは月命日に、いつものように若い女中を伴って浅草に向かった。日本橋の舟着場でおつなは舟を頼んだ。伊三次は後から別の舟に乗り込んだ。  舟は大川に出てから、北へ向かい、吾妻橋《あづまばし》の袂《たもと》に着いた。伊三次は、その少し手前で舟を下りた。仏光寺に着くまで、おつなは女中と他愛ないお喋りを交わしていたが、門前でおつなは帯に手をやり、女中に小銭を渡した。  女中はぺこりと頭を下げて浅草広小路の方角に踵《きびす》を返した。おおかた、その辺りの露店をひやかし、汁粉屋で汁粉を堪能するのだろう。店にいる時は息つく暇もなく仕事をさせられる女中にとって、月に一度のおつなの伴《とも》は楽しみな外出でもあろう。八兵衛の言うことよりおつなの言うことを聞く方が自分にとっては得だと、とっくに計算している。近頃の女中|気質《かたぎ》を伊三次はいまさらながら考えない訳にはいかない。おつなの不審な行動に身を以て諫《いさ》める気持ちなど微塵もないのだ。  おつなは墓参りを済ませると、陽射しを避けるように近くの欅《けやき》の樹《き》の下に立った。誰かを待っているような様子にも見える。  境内は人影もなく、ひっそりとしていた。  蝉しぐれがかまびすしい。  伊三次は離れた位置から、そっと様子を窺った。幸い、びっしり並んだ墓石と卒塔婆が伊三次の姿を隠してくれた。  おつなは墓石の前で揺れる蝋燭の火を、ぼんやりした表情で眺めていた。  やがて、ひたひたと草履の音が聞こえたかと思うと、白絣《しろがすり》の単衣物の上に紺の透ける羽織を重ねた四十がらみの男が境内に現れた。  頭をすっかり剃り上げていることから、伊三次は男の素性を按摩か町医者ではないかと当たりをつけた。が、男は別に眼が不自由な様子でもなかったので、按摩という考えは振り払った。  おつなの顔には相変わらず表情がなかった。  不義密通しているとすれば、おつなが男の顔を見た時、もっと弾《はず》んだものがあっていいはずだ。  おつなは男が目の前に来ると、黙って帯に手をやり、中から紙に包んだ物を取り出して男に渡した。男も黙ってそれを受け取った。  包みの中身は恐らく金だと伊三次は思った。  しかし、男が次に取った行動は全く不可解だった。男は自分の懐から紙片を取り出し、おつなに渡した。さらに男は矢立てから筆も出しておつなの手に持たせた。おつなは筆を持つと、紙片の上にさらさらと何かを書いている。おつなが筆を動かしている間、男は墓石に近づいて、火のともっている蝋燭を持って来た。  男が何やらおつなに囁き、おつなはこくりと肯いた。男は紙片に火を付けた。またたく間に紙片は燃え上がり、すぐに黒い燃えかすとなって地面に落ちた。男は草履の先で燃えかすを踏みにじりながら、また新たな紙片を取り出し、おつなにみせた。おつなはじっとそれを読み、静かに肯いた。  男は蝋燭を墓石の前に戻すと、そのまま境内から去って行った。二人の間に挨拶めいたものは交わされなかった。おつなは欅の樹の下で、じっと立ったままだ。おそらく女中が戻って来るまで、そのままでいるのだろう。  伊三次はすぐに腰を上げ、男の後を追った。  男は吾妻橋を渡って本所に入ると、通りを南に向けて進んだ。本所|御竹蔵《おたけぐら》の横をせかせかした足取りで歩いて行く。後ろから伊三次がついていることなど微塵も気づいていない。  亀沢町《かめざわちよう》の辻番小屋の前を過ぎ、一ツ目通りに入ると、さらに南へ進む。二ノ橋を渡り、弥勒寺橋《みろくじばし》を渡り、とうとう小名木《おなぎ》川に架かる高橋《たかばし》も渡った。その先は深川である。  まだ先へ進むのかと思った矢先、男は海辺《うみべ》大工町《だいくまち》の路地を入り、こざっぱりした一軒家の更紗暖簾《さらさのれん》の中に消えた。  玄関の柱に樋口長庵《ひぐちちようあん》と表札があるところは、やはり町医者か。それにしては薬取りの人々の姿もない。流行《はや》りの町医者なら、玄関先に薬取りが大勢、待ち構えているものだ。  もっとも、流行っていないから、おつなをたぶらかして金を巻き上げていると察しはつくが。  しかし、男とおつなのやり取りが謎だった。  伊三次はしばらく男の家の佇《たたず》まいを眺めてから、門前仲町へ足を向けた。深川まで来たついでに岡っ引きの増蔵の所へ寄ってみる気になった。      四  門前仲町は、いつもは富岡八幡宮や永代寺の参詣の人々で賑わっているのだが、やはり暑さのせいで人通りは疎《まば》らだった。  仲町の自身番に辿《たど》り着いた時、伊三次の背中の汗は着物を通して丸いシミになっていたようだ。増蔵はそれに気づくと「ずい分、稼ぐじゃねェか。倅《せがれ》ができると、そこまで張り切るものか」と、冗談混じりに言った。 「とんでもねェ。このくそ暑いのに張り込みでさァ」  伊三次は自身番の座敷の縁《へり》に腰を下ろし、情けない顔で応えた。 「不破の旦那の御用かい」  増蔵が冷えた麦湯を勧めながら訊いた。 「いいや。ちょいと知り合いに、かみさんの動きを探ってくれと頼まれたもんで」 「なら、間男って寸法だな」  増蔵は、あっさりと当たりをつける。 「いっそ、そっちの方が簡単なんですが、どうもそうでもねェらしくて……」 「訳ありは、この深川にも関係あるのかい」  事情がありそうな伊三次に増蔵は、つかの間、真顔になった。それなら自分も手を貸さなければならないと思ったようだ。 「増さん、海辺大工町の樋口長庵って町医者を知っていますかい」  伊三次は麦湯をひと息で飲み干すと、増蔵に向き直った。この頃、増蔵の白髪は増えたような気がする。考えてみたら、増蔵も四十の半ばだ。無理もない。 「海辺大工町はおれの縄張じゃねェから、よくわからねェが……」  増蔵は疎らに生えた顎髭《あごひげ》を撫でながら思案顔を拵《こしら》えた。 「あっちの縄張の親分にちょいと様子を訊くことはできやすかい」 「あ、ああ。それは構わねェが、いってェどういう事情よ。よければ話を聞かせてくんねェな」 「話をするもしないも、おれにも、さっぱり訳がわからねェんで、どうしたらいいもんかと頭を抱えているところです」 「何んだ、そりゃ」  増蔵は呆れた声を上げた。伊三次は翁屋の名は伏せて、先刻、仏光寺で見たことを、かい摘《つま》んで増蔵に話した。 「世の中にゃ、様々なのがいるな。全く、おれでも訳がわからねェ」 「でしょう?」  伊三次は増蔵から同意を得たことで、少しほっとした顔になった。 「だが、一つだけわかっていることは、そのかみさんが金を強請《ゆす》られているってことだな。いや……」  増蔵は自身番の低い天井を睨んで自分の考えを整理すると、「どうやら、そのかみさんは医者らしい男の言いなりになっているふうがある。こいつは銭の問題だけで済むものかと心配になるぜ」と、ぼそりと言った。 「何か弱みを握られていると、増さんは思うんですかい」  伊三次は増蔵の分別臭い顔をじっと見つめた。 「弱みって言えるのかどうかわからねェ。何かこう、目に見えねェもんに操《あやつ》られているふうがあるぜ。ほれ、たとえば茶運《ちやくみ》人形だ。客の前に茶を運んで、客が湯呑を取り上げて茶を飲み、空《から》の湯呑を置くと、踵を返して戻って行く……あんな感じがするな」  増蔵は突飛な例を挙げた。伊三次は応える代わりに短い吐息をついた。脳裏には奥山の見世物小屋で一度だけ見たことのある茶運人形の愛らしい顔が浮かんでいた。  茶運人形は出初めの頃、大層な評判を取ったものだが、単純な動作だけなのですぐに見物人に飽きられた。今は糸操りによる人形芝居が全盛だった。  だが、おつなは人形ではない。生きて呼吸する人間だった。 「まあ、増さんの理屈は何んとなくわかりやすが、小娘でもあるまいし、五十にもなった女が、そうそう、人に操られるってェのが解せやせんよ。こいつは、それこそ何か|からくり《ヽヽヽヽ》があるような気がしやす」 「何んだろうな。医者だから怪し気な薬でも使ったってことかなあ」  増蔵は相変わらず思案顔だった。しかし、増蔵が聞き込みを快く引き受けてくれたので、伊三次は幾分、気が楽になった。日本橋に戻ったら、取りあえず、今日のことを八兵衛に告げなければならないと思った。 「正吉の奴、遅《お》せェなあ」  増蔵は伊三次の湯呑に麦湯のお代わりを注ぎながら焦《じ》れたように呟いた。増蔵の子分をしている正吉の姿が、そう言えば見えない。 「見廻りにでも出ているんですかい」  伊三次は湯呑に口をつけながら訊く。 「なあに。ちょいと野暮用があって昼まで時間をくれってんで出かけたが、さっぱり帰って来やがらねェ。おおかた、|おこな《ヽヽヽ》の所で油を売ってんだろう」  伊三次は、ひょいと眉を上げた。おこなは以前にお文の女中をしていた女である。正吉がおこなにぞっこんなのは、伊三次も知っていた。 「おこなは今でも広小路の水茶屋にいるんですかい」 「あすこはとっくにやめた。しばらく、世話になっていた小母さんとかいう女の看病をしていたが、その女も春先に死んだんで、今は黒江町《くろえちよう》の生薬屋《きぐすりや》の女中をしている。ところが、そこは年増の後家が一人で切り守りしている店なんだが、おこなが来た途端、具合を悪くしちまってな、おこなは、また病人の看病よ。よくよくついてねェ女だ。でもまあ、大して苦にしてるようにも見えねェから、こっちも気が楽だが」 「正吉はおこなが近くに来たんで張り切ってるという訳ですかい」  伊三次は悪戯っぽい顔になった。 「そういうこと」 「正吉の親はおこなとつき合うことを、まだ許していねェんでしょう」 「ああ。あんな、半ちくな野郎じゃ、まともな嫁も来ないのによう。いい加減に観念したらいいものを、なまじ搗《つ》き米《ごめ》屋をしているもんだから、店をどうにかされるんじゃねェかと親は心配しているのよ」 「おこなはそんな女じゃねェですよ」  伊三次はおこなの肩を持つ。 「どうなるもんだか……」  増蔵は詮のない吐息をついた。  小半刻(約三十分)ほどで自身番を出ると、伊三次は馬場通りを一ノ鳥居に向かって歩いた。黒江町は通り道なので、ついでにおこなの顔を見ていくかという気になっていた。  西念寺横丁《さいねんじよこちよう》の角にその店「椿屋《つばきや》」があった。間口二間と狭いが、それでも一軒家で、藍暖簾を引き上げると、店座敷には古い薬箪笥《くすりだんす》が並べられていた。その薬箪笥の上には「腸内毒掃丸《ちようないどくそうがん》」だの、「萬病感應丸《まんびようかんのうがん》」だの、漆塗りの地に金箔で薬の名を書いた薬看板が飾ってある。その他にも目玉商品を書き出した半切《はんせつ》(画仙紙を半分に切ったもの)が簾《すだれ》のように下がっていた。  しかし、どうした訳か誰もいない。店の中は仄暗《ほのぐら》いので、奥の様子がわからない。伊三次は何度も「ごめん下せェ」と声を張り上げたが応答はなかった。  おこなは店を開けたまま出かけたのだろうかと、舌打ちが出た。小鬢《こびん》を掻いて出直すことを考えた矢先、外から甲高い女の声が聞こえ、おこなと正吉が寝間着姿の太った女を両脇から支えるようにして戻ってきた。 「あら、兄さん」  おこなは一瞬、驚いた声を上げたが、もちろん、女を運ぶことが先だった。年の頃、四十五、六、いや、もっと行ってるかも知れない。視線が定まらず、常軌を逸している様子だ。だが、おこなは慣れているのか慌てているふうもない。正吉にてきぱきと指示を与える。その女が椿屋の後家、|おとわ《ヽヽヽ》らしい。おとわの名は増蔵が教えてくれた。 「兄さん、ちょっと店番しててね。今、桂林《けいりん》先生を呼んで、お内儀さんを診て貰わなきゃならないから」 「お、おれ?」  慌てたのは伊三次だった。生薬屋の店番などしたことがない。正吉はおとわを部屋に運ぶと、また外へ出て行こうとして雪駄を突っ掛けた。 「おい、増さんがいらいらしていたぜ」 「わかってますって。だけど、放っとけねェでしょうが」  正吉は伊三次を睨んで吐き捨てるように言った。伊三次は正吉の剣幕に気圧《けお》されて黙った。正吉の背中は何んだか頼もし気に見える。  伊三次は感心した顔で正吉を見送った。その間にも、中から、おとわの呻く声が聞こえた。 「下さいな」  女房ふうの客が入って来た。 「いらっしゃいやし」  伊三次は仕方なく愛想笑いで応えた。 「腹下しの薬をお願いしますよ。子供がお腹を壊しちゃったんですよ」 「へい……」  伊三次は、おこなの所に行って「腹下しの薬だってよ」と、小声で囁いた。 「延命散《えんめいさん》」  おこなは間髪を容《い》れず応える。それから、ちょっと店を覗き「お鈴さん、悪いけど、今、取り込み中なのよ。お代は後でいただきますから」と、早口で言った。 「あいあい。ついでに砂糖の小袋も貰って行きますからね」  客が言い添えた時、もうおこなは顔を引っ込めていた。伊三次は客に教えられて目当ての薬と砂糖の小袋を渡した。砂糖は生薬屋で売られているのかと、初めてわかった。苦い薬を子供に飲ませるには、甘みで騙《だま》すのだろう。  正吉はほどなく、年寄りの医者を伴って戻って来た。 「また、始まったのか、これ、落ち着け!」  藤波《ふじなみ》桂林という町医者は年に似合わず、若々しい声で一喝した。 「黒く塗れって、真っ黒に塗れって」  おとわは、うわ言《ごと》を叫ぶ。 「何を塗るのだ、たわけ!」  桂林がそう言った後、背中でも叩くような音がした。途端におとわのうわ言は収まった。  その後で、おとわのすすり泣く声が静かに続いた。 「それで、お前はどこに行っていたのだ」  桂林はおとなしくなったおとわに訊いている。 「わからないんです。どうしても思い出せない」 「お前は八幡様の境内で寝間着のまま、ふらふらしていたそうじゃないか。そこで誰を待っていたんだ」 「わからない……」 「誰かに来いと言われたのか」 「……そんな気がするけど、わからない。でも、書き付けを黒く塗らなきゃ、どうしようもないから」 「その書き付けとやらに、何が書いてあったのだ」 「………」  おとわは、やはり答えられない様子だった。  伊三次は、そのやり取りを聞きながら、おつなのことを思い出していた。おつなが樋口長庵から筆を渡されて紙片に何か書いていたと思ったのは、あれは書かれていたものを塗り潰していたのではないだろうか。そういう気がしきりにした。  だが、依然として、その行為は謎だった。  やがて、桂林の手当で、おとわは落ち着いたようだ。声も聞こえなくなったということは眠ってしまったのだろうか。  桂林は静かに奥の部屋から出て来ると、履物に足を伸ばした。後ろからおこなと、薬籠《やくろう》を持った正吉が続く。 「お疲れ様でございやす」  伊三次は医者にねぎらいの言葉を掛けた。 「うむ。困ったもんだ。前はあんなことはなかったのに。惚《ぼ》けるには、ちと早いし……」  桂林は独り言のように言った。 「先生、海辺大工町の樋口という医者をご存じありやせんかい」  伊三次は早口に訊いた。椿屋の後家とおつなに共通するものが感じられてならなかった。 「あんたは?」 「申し遅れやした。わたしは髪結いをしている伊三次ってもんです」  そう言うと、おこなが「先生、文吉姐さんの旦那さんよ」と、横から口を挟《はさ》んだ。 「ほうほう、文吉の。それはそれは」  桂林は途端に表情を弛めた。文吉は深川にいた時のお文の権兵衛名《ごんべえな》だった。 「それで、樋口がどうかしたかね」  桂林は痩せて小柄な男だった。総髪はすっかり白かった。 「どんなお人なのか、ご存じでしたら伺いてェと思いやして」 「………」 「いえね、こちとら八丁堀の旦那の御用もしておりやして、ちょいとこのう、厄介な事にあのお人が関わっているようなんで」 「あいつは医者じゃない。医者のふりをしている騙《かた》りだ」  桂林は語気荒く吐き捨てた。 「こいつはわたしの勘なんですが、こちらのお内儀さんも樋口という医者に振り回されているんじゃねェかと思いやす」 「何か確証でもあるのかね」 「いえ、こちらのお内儀さんと似たような人を知っているもんで、もしかしたらと」  桂林は一度は帰り掛けたが、再び店座敷に上がり膝を折った。水浅黄《みずあさぎ》の着物の襟をはだけ、そこに扇子で風を送りながら口を開いた。 「以前は流行っていて、患者も多かったのですよ。奴じゃなきゃ駄目だという者もいたくらいですから」 「そいじゃ、腕がいいんですね?」  伊三次がそう訊くと、桂林は不愉快そうに首を振った。 「呪《まじない》を掛けるのがうまかっただけです」 「………」 「病は気からと、よく言うじゃないですか」 「まあ、それはそうですが」 「絶対に治ると呪を掛けて、実際に病が癒えた患者はおりましたよ。しかしねえ……」  桂林はそこで言い澱《よど》んだ。 「何んですか」  伊三次はすかさず突っ込んだ。八兵衛の父親の教えを守ったつもりだった。桂林は二、三度、眼をしばたたき「何んでも彼《か》でも、その通りにいくものか。特に死病に取り憑かれた者には適切な薬と、時には手術も必要なことがある」と、正論を言った。 「おっしゃる通りですね」  伊三次は大きく相槌を打った。 「奴はそんな患者を何人か死なせているんだよ。患者の家族は腹立ち紛れに、奴に殺されちまったと近所に触れ回ったんだ」 「さいですか」 「それで櫛の歯が欠けるように患者が減ってしまったんだよ。女房も実家に戻り、今は年寄りの女中しか残っていないだろう。去年、偽《にせ》の人参《にんじん》を売って訴えられ、とうとう医者の仕事もできなくなってしまったらしい」  長庵は切羽詰まって、金回りのいい女を狙い始めたのだろう。しかも、自分の呪に簡単に引っ掛かりやすい女を。 「おこな、ここのお内儀さんの様子がおかしくなったのは、いつ頃よ」  伊三次はおこなに向き直って訊いた。 「さあ、あたいがここに勤めるようになって間もなくだから、三月《みつき》くらい前からかな。ね?」  おこなは傍にいる正吉に同意を求める。正吉は「うん」と、子供のように肯いた。 「銭はどうだ? お内儀さんは銭を運んでいる様子はねェかい」 「あたい、わかんない。あたいのお金じゃないから」  おこなは心許ない顔で応えた。 「先生、わたしの知り合いも、どうやら奴の呪に掛かっているようです。それを解く方法はねェもんでしょうか」 「さて、それは……」  桂林は言葉に窮した。伊三次は仏光寺でみたおつなの様子を詳しく語った。桂林は大きく眼をみはった。 「これは、呪を掛けて、ご丁寧にその後で外に洩れないように封印している観がありますな」  桂林は難しいことを言う。 「いってェ、それは、どういうことなんで?」 「だから、奴がそのお内儀に紙ぺらを見せたのは前に掛けた呪で、その用が済んだから筆で消させ、さらに火で燃やした。お内儀の頭の中から、きれいさっぱり、そのことは消えているはずだ。仔細を訊ねても答えられないでしょうな」  伊三次は低く唸った。 「そんなに簡単に呪に掛かるもんなんでしょうかねえ」 「まあ、滅多にはありませんが、中には引っ掛かる者もおります。そのお内儀や、ここのお内儀のように」 「先生、そいじゃ、どうしたらいいんですか」  伊三次は縋るような気持ちで桂林に訊ねた。 「まあ、奴をしょっ引《ぴ》いて、そのお内儀も呼び、呪を解くことですな。おこなちゃん、あんたも、ここのお内儀から眼を離すんじゃないよ」  桂林はおこなに念を押した。 「大丈夫。それは正吉さんが、ちゃんと見てくれてるから」  あ、と伊三次は気づいた。長庵は正吉が見張っていたためにおとわに近づけなかったのだ。おとわはそのために呪の掛けられ放しで身体に変調を来《きた》したのではないかと。 「おこな、お内儀さんが起きたらよ、試しに紙ぺらと筆を持たせてやってくれ。お内儀さんは、恐らく、その紙を真っ黒に塗り潰すはずだ。多分、具合は少しよくなると思うから」  椿屋の後家がどのような呪を掛けられたか知れないが、二分や三分の金だけのことなら、大したことはないと伊三次は踏んだ。 「うん、いい考えだ」  桂林は相好を崩した。 「先生、ありがとうございやした。先生に会わなかったら、先行きの目処《めど》は立ちやせんでした」 「いやいや……あんたの勘もなかなかいい。髪結いにしておくのが惜しいほどだ」  桂林はようやく笑って帰り仕度を始めた。  伊三次は夜が明けたような気分になったものだ。  だが──      五  その頃、佐内町の翁屋で大変なことが持ち上がっていたことを伊三次は知らなかった。  伊三次はおつなの張り込みで時間を取られたので、夕方過ぎまで大慌てで得意先を廻り仕事を片づけた。  ようやく家に戻ったのは、六つ半(午後七時頃)を過ぎていた。 「|いよ《ヽヽ》、いーよ、|ちゃん《ヽヽヽ》だぜ。今、帰《け》ェったぜ」  呑気に声をかけると、お文が血相を変えて「お前さん、翁屋の旦那が毒を盛られたって」と、怒鳴るように言った。その声で茶の間に寝かせられていた伊与太が、|ぎゃっ《ヽヽヽ》と泣いた。 「いってェ、誰に」 「お内儀さんだって。お茶に石見銀山《いわみぎんざん》を仕込んだらしい。お内儀さんは番屋にしょっ引かれて……」  伊三次はお文の後の言葉も聞かず、台箱を放り出すように置くと、楓川《かえでがわ》沿いにある三四《さんし》の番屋に走った。三四の番屋は茅場町の大番屋と同じで、重罪を犯した者が連行される所である。そこで奉行所の役人の取り調べを受け、小伝馬町の牢に押し込められるのだ。  八兵衛は内々にしてほしいと伊三次に釘を刺したが、もはや、そんなことを言っている場合ではなかった。  案の定、番屋の中に入って行くと、中には北町奉行所定廻り同心の不破友之進、中間の松助、岡っ引きの留蔵、子分の弥八が顔を揃えていた。おつなは可哀想に縄で縛られ、留蔵に棒でぶたれていた。 「ま、待って下せェ。お内儀さんに罪はありやせん!」  伊三次は留蔵の前に立ちはだかった。 「どけ、伊三次。この女が急須に何やら入れるのを番頭が見ているんだ」  留蔵は憎々し気におつなを睨みながら言う。 「あたしはそんなことしてません!」  おつなは必死で叫ぼうとするも、何しろ生まれて初めて下手人の疑いで番屋に連行されたものだから、その衝撃の方が強いらしかった。 「旦那、お内儀さんにこんなことさせたのは、深川にいる樋口長庵という医者です。そいつをしょっ引いて下せェ」 「何んだと」  座敷に胡座《あぐら》をかいていた不破が片膝を立てた。 「お内儀さんは、そいつに呪を掛けられているんです。操られているだけです」  伊三次はおつなの前にしゃがみ「もう、心配はいりやせんぜ。お内儀さんをこんな目に遭わせた野郎のことはわかっているんですから」と言った。 「伊三次さん……」  おつなはほっとしたように、ぽろぽろと涙をこぼした。 「お内儀さん、樋口長庵という医者を知っていなさいますね」 「樋口、長庵……」  おつなはその名を区切りをつけて繰り返した。だが、力なく首を振った。 「わかりません」 「よっく思い出して下せェ。昨日今日のことじゃねェ。ふた月前か、あるいは半年前になるかも知れやせん。仏光寺で、お内儀さんは、その医者に会っているはずですぜ」  おつなは眉間に皺《しわ》を寄せ、必死で思い出そうとする。いつもはきれいに結い上げられている頭も、髷が崩れ、根も弛んでいる。 「あ、あたし、ずっと前に、お寺で急に差し込みに襲われたことがありました。あまりの痛みにしゃがみ込んでいましたら、誰かがそっと背中を撫でてくれて……とても暖かい手で、しばらくそうされていましたら、不思議に楽になったんです。あたし、お礼を言いました。その人はお医者さんのように黄八丈《きはちじよう》の着物に黒羽織を着ていたと思います」 「よく思い出しておくんなさいやした。でも、それから、お内儀さんは、そいつに会ったことはねェんですかい」 「ありません」 「本当に?」 「伊三次さん、どうしてそんなことをお訊きになるんですか」  おつなは怪訝《けげん》な眼を伊三次に向けた。 「お内儀さん、実は今日、わたしはお内儀さんの後をつけて仏光寺まで行ったんですよ」 「………」 「わたしはそこで、お内儀さんが長庵に金らしい物を渡すのを見てしまったんです」 「どういうことだ、え?」  留蔵が棒でおつなの胸を押した。 「よせ、留さん」  伊三次は慌てて留蔵を制した。 「黒く塗れ、あいつはそう言ってお内儀さんに書き付けの文句を消させやした。ついでに蝋燭の火で燃やさせやした。さあ、お内儀さんは内所から持ち出した金のことなんざ、きれいさっぱり忘れちまったんですよ」 「そんな……」 「お内儀さんは、そいつの呪に掛かっているんです。そいつは今日、別の書き付けをお内儀さんに見せた。多分、それには旦那に石見銀山を入れた茶を飲ませろと書かれていたはずです」 「伊三、樋口という医者は何んのために、そんなことをするんだ」  不破がいらいらして声を荒らげた。 「さあ、それはわたしにもわかりやせん」 「そいつが素直に吐くとは思えぬ」 「わたしも自信がありやせん。ただ一つ、お内儀さんは石見銀山を盛ったことについては、まだ筆で黒く塗ってはおりやせん。奴がそれをしない限り、お内儀さんの呪も解けやせん」  不破は腕組みして考え込んだ。 「お前ェにできるのかい」  やがて不破は試すように伊三次に訊いた。  伊三次は慌てて首を振った。長庵に対抗できる器量はないと思った。 「|やっとう《ヽヽヽヽ》の教えにな、術人《じゆつにん》恐るるべからず、という言葉があるのよ。術人とは腕の立つ者のことだ。腕のない者は相手の力を恐れるあまり普段の力もろくに出せず最初《はな》っから負けてしまう。脇目も振らず打ち込めば、どこかに隙を見出せるかも知れねェということよ。やれ、伊三次。おれ達がついてるぜ」  不破は檄《げき》を飛ばした。だが、伊三次は夏の盛りだというのに寒気《さむけ》を覚えた。      六 「どうする、どうする」  伊三次は伊与太を抱いて揺すりながら、節《ふし》をつけて、うたうように呟いていた。傍目《はため》には息子をあやす微笑ましい父親の姿に見えるだろう。事実、お文は伊与太の洗濯物を畳みながら、くすりと笑った。  三四の番屋から戻ると、伊与太はかっきりと眼を開けていた。さっきまで眠っていたという。これから寝かしつけるのが骨だ。  伊三次は晩飯を食べると、伊与太を抱き上げた。頭の中は翌日のことでいっぱいだった。  おつなは番屋の牢に収監された。樋口長庵の犯行と断定されるまで、依然、おつなの疑いは晴れないのだ。翌朝、不破は奉行所の手下を伴い、長庵を連行する手はずを調えた。  深川の増蔵には弥八が走って繋ぎをつけている。恐らく、増蔵は正吉と一緒に、今夜は海辺大工町を見張っているはずだ。  しかし、どうやって長庵を白状させたらいいのだろう。不破は素直に白状しない時は、例の偽人参の廉《かど》で長庵を牢にぶち込むつもりでいる。長庵は翁屋にその偽人参を持ち込んだ経緯があったのだ。八兵衛の父親の九兵衛が風邪で寝ついた時、どこから聞いたのか知れないが、長庵が翁屋に現れて人参を売りつけたという。当たり前の薬草人参なら並の人間には手が出せない値段だ。長庵は翁屋の構えを見て、売り込みに掛かったらしい。  だが、八兵衛に、そんなまやかしは通用しない。あっさりと追い払われた。それで逆恨みして、おつなに近づいたとも推測される。 「でもさあ、翁屋の旦那が無事でよかったよう。幾ら、お内儀さんの心持ちが普通でなかったとしても、頭の隅で少しは、まともなものが働いたんだろう。だから、石見銀山を盛るのにも自然に加減したんだろうよ」  お文は訳知り顔で言う。  八兵衛が大事に至らなかったのが不幸中の幸いだった。そうでもなかったら、おつなは今頃、三四の番屋どころではない。 「なあ、お文。お前ェ、誰かの言いなりになったことがあるか」  伊三次は立ったまま伊与太を揺すっている。  洗濯物を畳むお文は小さく欠伸《あくび》を洩らした。  明日に備えて早く寝なければと思うも、伊与太の丸い眼は一向に閉じる様子がない。  姉のお園は何から何まで伊三次と瓜二つだと言ったが、その眼はお文に似ていると伊三次は思う。 「わっちはお前さんの言いなりだろうが」  お文は皮肉な顔で応える。 「真面目な話をしているんだぜ」 「三味や踊りのお師匠さんの言葉は殊勝に守ったよ。あの人達は言う通りにしないと、途端に邪険にするからさ」 「そうじゃなくて、全くの他人様の言いなりになったことがあるかと訊いているんだ」 「ある訳ないだろう。所詮、他人は他人だ。勝手なことしか言わないよ。それをまともに取って、しくじりをしたとしても、他人様が落とし前をつけてくれる訳じゃないよ。結局、手前ェがしっかりしていなきゃ駄目なのさ」 「………」 「でもねえ、世の中には存外に意気地のない奴が多いから、八卦《はつけ》を見て貰いに行ったり、怪し気な神さんを信心するんだよ。気が弱いというより手前ェに自信がないんだねえ」 「翁屋のお内儀さんをどう思う」  ずばりと訊いた伊三次に、お文は少し間を置き、「育ちがよくて鷹揚な人だと思うよ」と、取って付けたように言う。 「遠慮はいらねェ。正直なところを聞かせてくんな」  お文は天井を向いて短い溜め息をついた。 「ああいうのが、一番騙されやすいのさ。疑うってことを知らない人だ。他人の言いなりになったとしても不思議はないよ。でもねえ、石見銀山は、やり過ぎだよ。あそこの家には鼠でもいたのかねえ」  お文は石見銀山の出所を気にした。その瞬間、伊三次の頭に閃《ひらめ》くものがあった。  石見銀山は長庵が椿屋から調達したものではないのかと。仏光寺でおつなと長庵を見張っていた時、紙片のやり取りに心を奪われていたが、長庵がおつなに石見銀山の小袋を渡すのは、考えられないことでもない。  長庵がおつなと同じ手口で椿屋の後家から金を引き出すついでに石見銀山も……。  伊三次は自分がひどい間違いを犯したことに気づいた。伊三次は椿屋の後家に紙と筆を持たせろとおこなに命じている。もしも、それが成功したとしたら、椿屋の後家が長庵に石見銀山を渡したことは記憶に残らない。  呆然とした伊三次に伊与太がぐずった。 「お前さん、どうしたえ?」 「手掛かりを一つ消してしまったかも知れねェ」  お文は黙って伊与太を伊三次の手から抱き取った。  椿屋の後家は何も書かれていない紙を黒く塗り潰すだろうか。伊三次は逆に長庵の呪が解けないことを心底願った。  文机《ふづくえ》の引き出しを開け、そこから紙と硯箱を取り出した。伊三次は仏光寺で長庵がおつなに見せていた紙片の大きさを思い出して切った。それから、墨を摺り、一枚には「石見銀山を持ってくること」と書き、もう一枚には「石見銀山を急須に入れて旦那に茶を飲ませること」と、書いた。  伊三次の思惑がうまく行くかどうかはわからない。だが、それを二人の女に見せた時、長庵に何んらかの反応があるはずだ。伊三次はそれに賭けてみようと思った。  二枚の書き付けを前にして、伊三次は長いことじっと見つめていた。夜が明けたら、真っ先に椿屋に駆けつけ、おとわを三四の番屋に連れて行かなければならない。  行灯《あんどん》がジジっと焦《こ》げたような音を立てた。  気がついたら、茶の間にお文と伊与太の姿がなかった。お文は思案する伊三次の邪魔をしないように、そっと奥に引っ込んだらしい。  相変わらず蒸し暑い夜だ。はだけた胸に手を当てて、伊三次は湧き出た汗を押さえるような仕種をした。その汗は冷たく感じられた。  明日のことはわからない。だが、明日の夜はすべてが終わっている。  最悪の場合は長庵の尻尾が掴めず、おつなが罪に問われることだった。偽人参の廉で捕らえたとしても、沙汰はさほど重いものにならないだろう。晴れて娑婆《しやば》に戻った長庵は、また次なる獲物を探す。  同心の小者として、伊三次は初めて下手人に強い憎しみを抱いた。  夜は更けていた。伊三次の影が襖に黒く映っている。その影を見つめて伊三次は低く呟いた。  黒く塗れ、と。      七  茶の間でごろ寝した伊三次は夜が明ける前に家を飛び出した。  海賊橋を渡り、茅場町を突っ切り、永代橋へまっしぐらに向かった。日本橋川の魚河岸では早くも競《せ》りが始まっているようだ。  伝馬船から魚を入れた木箱が次々と運び出される。人足の活気が、その時の伊三次の僅かな慰めだった。  永代橋の橋番は顔見知りである。御用の筋だと言うと、通してくれた。誰もいない永代橋を伊三次は小走りに進む。ひどく心細い気がした。結局、人間なんて独りだ、と伊三次は思う。女房がいて、息子ができたとしても、こんなふうに誰もいない道を独りで進んで行かなければならない時があるのだ。伊与太も、いずれそんな気持ちになる時がやって来よう。  それを思うと不憫でやり切れない。 (伊与太よう、ちゃんにできるだろうか)  伊三次はまだ顔つきの定まらない伊与太の顔を思い浮かべて呟いた。伊三次の胸の中は不安でいっぱいだった。いや、悪い結果ばかりが予想される。所詮、この世は正義が勝つとは限らない。同心の小者をしていなければ、伊三次だって正義などと訳のわからない言葉は、くそ喰らえだ。つまらないことばかりを考えるのは、伊三次がそれだけ緊張していたせいだろう。  椿屋の店前でおこなが掃除をしていた。  おこなは伊三次に気がつくと、ふっと笑った。 「お早うございます。ずい分、早いのね」 「ああ。椿屋のお内儀さんに、ちょいと三四の番屋まで来て貰いてェと思ってな」  そう言うと、おこなは何気なく店を振り返った。どうやら、おとわも起きている様子である。 「あれから具合はどうだ」 「お蔭様で、少し落ち着いていますよ。でも兄さん、あたい、兄さんの言われた通りに紙と筆を持たせたけど、却《かえ》ってお内儀さんは頭を抱えてわめいたんで、すぐにやめちまったのよ」  おこなはすまなそうな顔で言った。 「いいんだ、おこな。何も書いていない紙を見せたって、お内儀さんはどうすることもできねェ。余計なことを喋っちまったぜ。堪忍してくんな」  伊三次は少し安心した。問題は椿屋のおとわが日本橋まで歩けるかどうかだった。 「ちょいと邪魔するぜ」  伊三次はそう言って椿屋の藍暖簾を掻き分けた。  おとわは帳場格子の中に、ちんまりと座っていた。取り乱していた時のおとわとは別人のように思えた。体格がいいので、動きやすいように着物はゆったりと着付けている。大ぶりの丸髷はおとわによく似合っていた。 「お越しなさいませ」  おとわは、その体格から想像もできない可愛らしい声を出す。 「朝早くから恐縮でござんすが、手前、八丁堀の旦那の御用をつとめておりやす伊三次という髪結いでござんす。本日はご足労ですが、日本橋の三四の番屋までおいで願いてェと思いまして」  おとわは驚いた様子で、しばらく黙った。  だが、「あたしは番屋に出向かなければならないようなことは何もしておりません」と、堅い声で応えた。 「もちろんですよ。お内儀さんが罪を犯す訳がありやせん。それはよっくわかっておりやす」  伊三次はおとわを安心させるように言った。 「お内儀さんは海辺大工町の樋口長庵という町医者をご存じですかい」  伊三次は試しに訊いた。 「ええ、樋口先生は、うちの人が生きていた頃、よくお店にいらしておりました。ですが、この頃は……」  足が遠退《とおの》いているのだろう。つん、と伊三次の胸が疼《うず》いた。これで、椿屋と長庵が繋がったと思った。呪という訳のわからないことで人を騙す輩《やから》には、こうして一つ一つ物事を詰めていくしかない。水も洩らさぬ態勢を調えている内、いつか長庵は尻尾を出す。出すはずだ。 「ついでに伺いやすが、このお店では石見銀山も置いておりやすかい」 「お客様のご用のために幾らか置いておりますが」  おとわは、やや不安そうに応えた。 「最近、長庵が、それを買いに来たということはありやせんかい」 「いいえ」 「本当ですかい」  念を押すと、おとわは自信がない様子で外のおこなを呼んだ。 「こちらの旦那は石見銀山のことを調べていらっしゃるようなんだが、お前、何か心当たりはないかえ」 「さあ、あたいもよくわかりませんよ。でも、お内儀さん、毒のある物を売る時は帳面に居所と名前を書いて貰うじゃないですか。それを見たらわかるんじゃないですか」  おこなは機転を利かせて言う。もう、すっかり生薬屋の商売が板に付いている様子である。 「そうだったね」  おとわは窮屈そうに身体をねじ曲げ、壁の釘に引っ掛けてある古い帳面を取り出した。  ぱらぱらと捲《めく》ったが、そこには目ざす長庵の名はなかったらしい。 「やはり、そのようなことはございませんよ」  おとわがそう言った時、横からおこなが手を伸ばし、おとわの手から帳面を取り上げた。 「お内儀さん、暮に乾物屋の下総屋《しもうさや》さんが鼠取りをするからと三服、持って行ってますよ。すると残りは十一服あるはず。ちょいと調べますね。えと、どこだったかな」  おこなは薬箪笥に貼られた文字を探す。 「おこな、ここここ」  おとわは、おこなが見つけるより先に一番下の引き出しを開けた。  ひい、ふう、みい、よ……おとわは数えている内に小首を傾げ、何度も数え直した。 「お内儀さん、数が合いませんかい」  伊三次は口を挟んだ。 「え、ええ。一つ足りません。どうしたらいいものか」  疑われる事実が出てきて、おとわは途端に慌てていた。 「お内儀さん、その足りないということを番屋で話していただければ、こちとら助かるんですが。いえ、決してお内儀さんに迷惑は掛けやせんので、ご安心下せェ」 「おこな……」  おとわは不安そうにおこなを見た。 「お内儀さん、兄さんのことは任せて大丈夫だって。言う通りにしてやって」  おこなは豪気に言った。おとわはそれを聞くと、ようやく「承知致しました」と、低く応えた。      八  伊三次がおとわを連れて三四の番屋に着くと、長庵は、すでに番屋の筵《むしろ》に座らされていた。その横には翁屋のおつなが俯いて座っている。長庵と眼を合わせたくないというふうにも見えた。  伊三次はおとわのことを手短に不破に囁いた。  それから、おとわをおつなの隣りに促して座らせた。  おとわは目顔でおつなに頭を下げる。長庵は二人を憮然とした表情で眺めていた。 「さあて、これで役者が揃ったな。そいじゃ、これから始めさせて貰うぜ」  不破は座敷から声を掛けた。不破の傍には書役の役人が一人いたが、他は不破の配下の小者達が勢揃いしていた。こんなに一斉に揃うのも珍しい。中間の松助、留蔵、弥八、深川の増蔵、正吉。伊三次も加われば六名の不破の小者達。伊三次は何んだか頼もしい気がした。朝方には独りぼっちだと、強く思ったものだが、どうしてどうして、ここには気持ちが通じている仲間がいた。  不破は事務的に三人の身元確認を行った後、いよいよ事件の核心に触れる話を始めた。 「翁屋おつな。その方は亭主に石見銀山を入れた茶を飲ませようとしたが、それはまことか」 「あたしはそんなことはしておりません」  おつなは声を励まして応えた。恐らく、昨夜は一睡もできなかったことだろう。おつなの表情には憔悴の色が濃かった。 「ほう。しかし、亭主の手当をした医者は石見銀山を盛られた様子だと報告しているぞ。それに店の番頭が、お前が茶を淹《い》れるところを見てもいる。申し開きはできまい」  不破の言葉におつなは黙った。どう理屈をつけても、お前だと言われたからには言い訳ができない。おつなには諦めの様子があった。 「亭主に、何んぞ遺恨でもあったのか」 「ございません。うちの人は真面目に仕事をしておりますし、よそに女を作ったこともございません。そんな、あたしがうちの人を恨んでいただなんて、そんなことは決して……」  必死で言い訳するおつなを、おとわは気の毒そうな眼で見つめ、そっと肩に手を回した。  おつなは頭を下げ、涙ぐんだ。長庵は退屈そうに欠伸を洩らした。留蔵が長庵の肩に棒をひと打ちくれた。長庵は身体をびくっと震わせ、痛みを堪えた。 「翁屋のお内儀として、お前は今まで立派に店を守り立てて来たのは周知のことだ。しかしながら、ここに来て、いきなりの不審な行動の数々。何か理由があるのか」 「いいえ、何もございません」 「夫婦仲が悪かったのではないか」  不破は言い難いことでも淡々と訊く。おつなは恥ずかしそうに俯いて首を振った。 「しからば、内所から金を持ち出し、そこの樋口長庵に渡した理由は何んだ」  不破がそう訊いた途端、「お言葉ですが、私は金などいただいてはおりません」と、長庵が口を挟んだ。悪党は皆、悪党面をしている訳ではない。中には、まさかこいつが、と思えるほど真面目な顔をした者もいる。しかし、樋口長庵には一種のいかがわしさが感じられた。  多分、それに気づいていないのが、おつなであり、おとわであるのだろう。伊三次は二人を眺めてそう思った。 「長庵、お前は昨日、浅草の仏光寺でおつなに会っているはずだ」  不破は表情も変えずに続ける。 「偶然でございます」  長庵は、しゃらりと言ってのけた。 「ほう、偶然はこの世に何度もあるものかのう。少なくとも、お前は仏光寺でおつなと四、五回は会っているはずだ。その内、二回ほどは翁屋の奉公人に見られ、一回はおれの手下に見られている。これはどういうことだ?」 「お内儀さんは癪《しやく》の持病がおありになっているようで、時々、手当をしたことがございます」  長庵は前言を取り消した。 「おざなりを言うな。貴様はおつなに会ったのは偶然だと言ったろうが」  不破は大声で怒鳴った。 「申し訳ありません。つまらぬ疑いを掛けられてはと恐れて嘘を申しました」  長庵は慌てて手を突いて謝った。 「おつな、長庵の言ったことに間違いはないか」 「あたしは、よく覚えておりません」  おつなは首を振った。 「はて面妖な。手当をされたのに覚えておらぬと申すか」 「お内儀さんは痛みが激しくて、それどころではございませんでした。私の顔を覚えていなくても無理はございません」  長庵がまた口を挟む。 「昨日もお内儀は仏光寺に詣でたようだが、その時も癪に襲われたのか」  不破は長庵を無視しておつなに訊いた。おつなは首を振った。 「苦しんでいたではないか。みぞおちが痛むと」  長庵が声を荒らげた。 「そうかも知れません」  おつなは長庵の剣幕に気圧《けお》されて低い声で言った。 「どうもおかしい。お前は長庵の言うがままに思える。二人の間に何んぞ、人には言えない事情でもあるのか」 「ありません!」  おつなは悲鳴のように叫んだ。 「さて、椿屋おとわ。お前はどうして番屋に呼ばれたのかわかるか」 「はい、店に置いておりました石見銀山が一服なくなっておりましたので」  おとわは低い声で応えた。 「それを、このおつなに売ったのか」 「いいえ。お内儀さんは日本橋のお方、わざわざ深川まで買いにいらっしゃる訳もございません」 「しかし、石見銀山は一服消えている、そうだな?」 「はい」 「いってェ、それはどこに行ったものか」  不破はそう言って長庵をぎらりと睨んだ。 「私だという証拠はございません」  長庵は先回りするように言った。 「手前ェに訊いちゃいねェ。おきゃあがれ、唐変木《とうへんぼく》!」  不破のいらいらは、そろそろ頂点に達しているようだ。伊三次は不破の前に進んで懐から書き付けを取り出し、耳許に小声で囁いた。  不破はにんまり笑った。 「樋口長庵さんよ、あんたのドヤ(塒《ねぐら》)からこんな書き付けが出て来たぜ。ちょいとこれからお内儀さん達に見て貰いましょう」  伊三次はこれ見よがしに紙片をひらひら振って見せた。書き付けの文字は、そこからは見えないはずだ。長庵の顔に僅かに緊張が走った。  二人の女を座敷に上げると、伊三次は書き付けを前に置いた。二人の女の表情には、それとわかる変化があった。おつなは胃の辺りを押さえ、おとわは頭を抱えた。息遣いも荒い。二人の女は何事かを思い出そうとして苦しんでいた。 「黒く塗れ!」  長庵は呪文のように呟いた。二人の女の動きが一瞬、止まった。眼が泳ぐ。その眼は筆を探しているのだと伊三次は思った。 「長庵、何んだ、そりゃあ」  不破は試すように訊いた。 「いえ、こっちのことです」  言った途端、伊三次は座敷から飛び下りて長庵の頭を力まかせに張った。正吉が伊三次の剣幕に脅えて「ひッ」と、妙な悲鳴を上げた。  増蔵が低い声で「静かにしろ」と制した。 「往生際が悪いぜ、長庵。おとわには石見銀山を持って来いと書いてあるし、おつなの方にゃ、それを亭主に飲ませろと書いてあるんだぜ。手前ェが呪とやらを掛けてな。可哀想に二人は茶運人形みてェにお前ェの言いなりに操られていたのよ。人を思いのままに操るのは、さぞかし気持ちがよかっただろうな」  もはや申し開きはできないと思った長庵は、とうとう観念して「畏れ入ります」と、頭を下げた。書役から筆を借りた二人の女は書き付けを黒く塗った。伊三次はそれを蝋燭の火で燃やした。  新たな書き付けはない。呪を解かれた二人は夢から覚めたような顔をしていた。お互いに顔を見合わせた二人は自然に微笑んでいた。 「長庵、ついでに言うが、燃やした書き付けはお前ェが書いたもんじゃねェぜ。そこの髪結いが拵えたもんだ。最後は手前ェで呪に掛かっちまったな。本当の書き付けは海辺大工町にまだ、あるのかい」  不破がほくそ笑んで言うと、長庵は呆気に取られたような顔になった。 「もはや後の祭りよ。書き付けの一枚や二枚、隠したって始まらねェ。おう、素直に白状しな」  不破は執拗に迫る。 「……薬籠の中にございます」 「助かったぜ。証拠がなけりゃ、お奉行様に説明のしようがねェ。恩に着るぜ、この蛆虫《うじむし》め! 留、牢に放り込め」  不破は不愉快そうに吐き捨てると、もう長庵の方は見向きもしなかった。  茜《あかね》色の夕陽が眩しい。長い一日が終わった。  おとわは増蔵と正吉に伴われて深川に戻った。おつなも弥八に伴われて翁屋に戻った。  八兵衛の体調が戻ったら、伊三次は長庵のことをゆっくりと説明するつもりでいる。おつなは覚えのないこととは言え、自分のしたことに恐れと不安を覚えていた。 「お内儀さんは、何一つ悪くありやせんぜ」  伊三次はおつなにそう言った。おつなは涙をこぼして伊三次と不破に何度も頭を下げた。  これからしばらくは、おつなも奉公人から白い目で見られるだろう。それに耐えられるかが、伊三次は少し心配だった。まあ、八兵衛がついていれば大丈夫だと思うが。 「伊与太は元気にしているか」  番屋の前で別れ際、不破は静かに訊いた。  名づけ親としては気になるのだろう。 「へい」  伊三次は張り切った声を上げた。 「そうか。文吉にな、伊与太の顔を見せに来いと伝えろ。いなみが喜ぶからとな」 「へい、ありがとうございやす」 「そいじゃ、な」  伊三次に対して褒《ほ》め言葉は何もなかったけれど、不破の表情には満足の色があった。  背を向けた不破が深い吐息をつくのがわかった。それに誘われるように伊三次も吐息をついた。  日本橋、佐内町は新場《しんば》の夕市が始まる頃だった。伊三次は賑やかな新場を横切り、家のある小路へ急ぎ足になる。伊与太の顔が早く見たかった。 [#改ページ]   慈 雨      一  旧暦八月の声を聞くと、さすがに江戸も秋めいてくる。  夜は微かに虫の音《ね》もするようになった。そんな時、伊三次の息子の伊与太《いよた》はお文の乳首から|かぽっ《ヽヽヽ》と唇を離し、生まれて初めて聞く虫の音に耳を澄まして、脅《おび》えたような表情になる。 「臆病だねえ。虫の音じゃないか。お前は|ももんがあ《ヽヽヽヽヽ》でも来たと思っているのかえ」  お文は優しく伊与太をあやす。 「あれはな、鈴虫ってんだ。リーン、リーンって鳴くんだぜ。松虫はチンチロリンよ」  伊三次は伊与太の盆の窪《くぼ》を指でなぞりながら言う。伊与太はくすぐったそうに首を縮めた。親子が川の字になって眠るのは庶民のささやかな倖せである。蚊遣《かや》りの白い煙が蚊帳の外でくゆっている。伊与太がまだ眠らないので行灯《あんどん》は点《つ》けたままだ。 「……千草にすだく武蔵野の、鎧《よろい》にあらぬ轡《くつわ》虫、いなご鈴虫こがね虫、馬追い虫のやるせなや。我は及ばぬ蓑《みの》虫なれど、父よと泣かで恋に身を、やつれはてたるきりぎりす。蚊帳も思いの片釣《かたづ》りに、ひとりこがるる蛍籠《ほたるかご》……」  お文は口上らしいのを低く呟いた。 「何んでェ、そいつは。富本節の文句か?」 「いいや。芝居の台詞《せりふ》だ。声色《こわいろ》の得意な太鼓(幇間)がお座敷でやっていたのを覚えていたんだよ」 「相変わらず、頭のいいこって」 「皮肉かえ」  お文は|きゅっ《ヽヽヽ》と伊三次を睨んだ。 「そんなつもりはねェが、餓鬼に聞かせる文句にしちゃ、色っぽ過ぎるぜ」 「本当だね」  お文はあっさりと引き下がった。お文は伊与太を産んでから少し変わったと伊三次は思う。無闇に意地を通そうとしなくなった。芸者の意地も何も、頑是《がんぜ》ない赤ん坊には通用しないことを悟ったせいだろうか。 「前田じゃ、そろそろお座敷に出てくれと言って来てるんじゃねェのかい」  伊三次はふと思い出して言った。お文は短い吐息をついた。前田はお文が世話になっている日本橋の芸妓屋である。お文は、そこのお内儀から、子供を産んで落ち着いたらお座敷に戻って来てくれと言われていたのだ。もはや、伊与太が生まれて三月《みつき》が過ぎた。遅くても九月にはお座敷に出ると約束していたが、実際に子供が生まれてみると、そんなに簡単にはいかないと、お文は思うようになった。  伊三次が決まって毎晩家にいるのなら問題はないが、時にはお上の御用で家を空けることもある。小僧の九兵衛は暮六つ(午後六時頃)になると家に帰ってしまう。そうなると伊与太の面倒を見てくれる者がいなかった。 「たまのことなら、おれが引き受けるぜ」  伊三次は気軽に言う。 「もしも、わっちがお座敷に出ている間に不破の旦那の御用が入ったらどうするのさ」 「………」 「伊与太を背負って行くのかえ」 「そん時はそん時よ」 「そういう訳にはいかないよ。わっちも一旦、お座敷に出たとなったら、おいそれとは戻れない。ちゃんと面倒を見てくれる人が見つからない限り、どの道、お座敷には出られないのさ」 「………」 「まだひと月ほど時間があるから、わっちも何か手立てはないか考えてみるよ」 「やっぱ、女中の手は要るな。口入《くちい》れ屋(周旋屋)にでも当たるか」 「お前さんが、ひと月あくせく稼いだものを女中の給金にあらかた取られるのもどうかと思うよ」 「そうは言ってもよ……」  伊与太のためなら背に腹は替えられないと思う。 「最初は月の半ばと晦日の忙しい時だけにして貰うから、近所を当たった方が早いだろう」  お文はそう言ったが、そんな奇特な人が見つかるだろうかと伊三次は思った。虫の音はその夜、かなり長いこと続いていた。      二  翌朝、八丁堀の不破友之進の組屋敷で、伊三次はいつものように不破の髭《ひげ》を当たり、髪を結った。朝に機嫌の悪い不破はいつものことだったが、それにしても、ひと言も口を利かないのも珍しい。  髭剃りに使った桶の湯を庭に振り撒《ま》くと、「旦那、何か御用はござんせんか」と、伊三次の方から訊いた。 「うむ、ある」  不破は重々しい口調でようやく応えた。 「そいつはどんな」  座り直して伊三次は不破の顔をじっと見つめた。 「松浦先生の所のお婆《ばば》が行方知れずになっておる。心当たりを捜してくれ」  不破は、ひと息に言った。松浦先生とは不破の家の掛かりつけの医者である松浦|桂庵《けいあん》のことだった。お婆とは、その母親のことで七十はとうに過ぎているはずだ。しかし、たまに通りで見かける母親は身仕舞いがきっちりして、足腰も達者だった。惚《ぼ》けて行方知れずになるような人ではなかった。 「お婆様はいつから行方がわからなくなったんで」 「三日前からだ。ちょうど深川のお不動さんで釈迦如来像のご開帳があったそうだ。お婆は女中を伴にして出かけたが、途中で女中とはぐれてしまったらしい。しっかりした人だから、もしや先に戻ったかも知れねェと女中は呑気にしていたが、それから|ぱたっ《ヽヽヽ》と行方がわからなくなったのよ。女中は泣きわめいて手がつけられねェし、どうしたらいいものかと松浦先生はおれのとこに頼みに来たんだ」 「足でも挫《くじ》いたんなら、駕籠《かご》を頼んで戻って来るはずですね。もしや、かどわかしにあったということはござんせんか」 「わからん」  不破は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。 「神隠しってェこともねェでしょうから、そいじゃ、わたしはこれから深川に向かって足取りを探りやしょう」 「うむ。それからな、身許の知れねェ年寄りの土左衛門が上がっていねェか、増蔵に当たらせろ」  あ、と伊三次は思った。不破はすでに最悪の事態を予想していたらしい。口数が少なかったのはそのせいだったのかと合点《がてん》がいった。 「まさか、旦那」  伊三次は悪い予想を打ち消すように言った。 「だってよう、もう三日だぜ。幾ら何んでも、なしの礫《つぶて》ということがあるもんか。こいつは不測の事態が起きたと考えるしかねェじゃねェか」 「松浦先生は末っ子の息子さんで、あのお婆様を大層慕っておりやす。もしもそんなことになったら、具合を悪くしちまいますぜ。旦那、はっきりしたことがわかるまで、滅多なことは申し上げねェ方がよござんす」  伊三次は上目遣いで不破を見ながら言う。 「当たり前だ。面と向かって言えるものか。だがなあ、一日過ぎれば、もしもの割合が高くなるんだ。この二、三日中に行方が知れねェ時は、それなりの覚悟が要るというものよ」 「………」  何気ない一日を、息を詰めて過ごす家族もいる。伊三次は松浦桂庵一家の不安と心細さを思った。 「できるだけのことはさせていただきやす」  伊三次は台箱に商売道具を収めると、こくりと頭を下げた。 「伊三次さん」  不破の妻の|いなみ《ヽヽヽ》が雪駄を突っ掛けた伊三次に慌てて声を掛けた。 「松浦先生のお婆様は深川の入船町《いりふねちよう》に手習いを教えていらしたお弟子さんがいたはずですよ。時々、お立ち寄りになっていたご様子なので、そちらにもお顔を出したらいかがでしょう」 「へい。そのお弟子さんは入船町の何んというお人ですか」 「松屋というお菓子屋さんに嫁いでいる方で、お梅さんとおっしゃいます。年の頃、二十五、六のお内儀さんですよ」  松屋は伊三次の知り合いの家の近所にある菓子屋だった。 「松屋なら、ようく知っておりやす。忘れずに訊いて参ります」 「そうしてね。早く見つかるといいですわね」  いなみも心配そうに眉根を寄せていた。  深川に向けて歩みを進めながら、伊三次はさほど悪い予感がして来ないと思った。事件はどんな展開になるか知れたものではないが、時々、ふっと勘のようなものが働く時がある。  迷子になった子供の話を聞いて、嫌になったことがあった。あちこち捜し回って、試しに近くの池を見に行ったら、果たして子供がその池に嵌《は》まっていた。親が目を離した、ほんの少しの間のことだった。  予感が現実になるのは恐ろしい。だが、その時は三日も過ぎていたというのに、伊三次に緊迫したものは湧いて来なかった。できるなら、その予感が当たってほしいと思うばかりだった。  深川に入ると、真っ先に門前仲町の自身番に向かった。そこには界隈を縄張にする増蔵がいる。  深川不動の釈迦如来像の開帳は大変な人出で、増蔵は普段の何倍も、人出の整理に苦労したらしい。しかし、年寄りの女に事故があったという届けは出ていなかった。 「全く、年寄りはおとなしく家にいたらいいのによ。わざわざ、人出のある時に出かけて来るからこんなことになるんだ」  増蔵は煩《わずら》わしいような顔で言った。 「全くですね」  伊三次も相槌を打ったが、ふと、自身番の棚に虫籠が一つ置いてあるのに目を留めた。中には緑色した虫が瓜《うり》の切れ端に足を掛けていた。 「虫聞きですかい」  伊三次は薄く笑って訊いた。 「なあに。正吉が|おこな《ヽヽヽ》と縁日に行って買ったものよ」  幾つになっても正吉は無邪気なものだと思った。正吉は増蔵の下っ引きだが、御用の合間におこなと逢引《あいびき》することは忘れない。おこなは黒江町の生薬屋《きぐすりや》の女中をしている。 「おう、ところで、この頃、播磨屋《はりまや》のお内儀の店には行ってるかい」  増蔵は思い出したように訊いた。播磨屋は日本橋で廻船問屋をしていた店で、そこのお内儀は亭主と離縁してから深川の入船町で小間物屋を開いていた。お内儀のお喜和《きわ》は伊三次の古くからの客だった。 「これから寄ろうと思ってたところですよ。あすこの近所の菓子屋の嫁は、そのお婆様の弟子だったと聞いているんで」 「何んでェ、迷子の婆ァはただの婆ァじゃなさそうだな」  増蔵は意外そうな顔になった。 「へい。お婆様は陸奥国《むつのくに》のさる藩のご祐筆《ゆうひつ》の出だそうです。お婆様も結構な字を書くお人で、今でも何人かの弟子に手習いを指南しているんですよ」 「てェしたもんじゃねェか」 「物言いもしっかりした人で、近所の女房は夫婦喧嘩すると相談に行くんだそうです。お婆様が亭主を怒鳴り散らすと、亭主は小さくなっちまうそうです」  伊三次は松浦桂庵から以前に聞いた話を増蔵に教えた。桂庵の母親の美佐《みさ》は近所の住人からも頼りにされる存在だった。 「無事に見つかりゃいいんだがなあ」 「へい……」 「この間よう、播磨屋の娘がおれの嬶《かか》ァの所に顔を出したんだと」  増蔵は少し改まった顔つきになって言った。  増蔵の女房も内職に小間物屋をしているので、播磨屋のお喜和、お佐和《さわ》親子とは同業のよしみで顔見知りになったのだろう。 「そん時よう、嬶ァがお愛想に、まだ嫁に行かないのかと娘に訊いたらしいんだ」 「まあ、お佐和ちゃんも年頃ですからね」 「そしたらよう、あたしは振られてばかりだと寂しそうに言ったんだそうだ」 「………」 「その話しぶりから考えると、相手はどうも例の巾着切《きんちやつき》りらしくて……」  増蔵の言う巾着切りとは直次郎のことだった。直次郎はお佐和に惚れていたのだ。 「増さん、お佐和ちゃんに喋ったんですかい」  伊三次は思わず声を荒らげた。 「心配すんな。嬶ァは直次郎のことは知らねェ。家に帰ってから嬶ァに話を聞いて、ああ、あいつに惚れていたのかと思ったまでよ」 「………」 「奴が今どこにいるのか、知ってるか」 「わかりやせん。おれが播磨屋から手を引けと言ってから、こうと一年近く会っておりやせん」 「手を引けと言ったのは、あの娘のためか」 「当たり前です。巾着切りをお佐和ちゃんの婿にする訳には行きやせんからね」  そう言うと、増蔵は居心地の悪い顔になった。伊三次はまずいことを言ってしまったと後悔した。増蔵の先妻も、その癖のある女だったからだ。 「あいすみやせん。別に増さんに当てつける意味じゃねェんですが」 「わかっているよ。だが、直次郎の野郎は足を洗ったそうじゃねェか」 「誰に訊いたんで」 「ふん、浅草の奴の親方よ。人差し指を手前ェで切ったそうだってな。伊三、それだけ思い詰めたんなら、何んとかしてやってもよさそうなもんじゃねェか」  伊三次は応える代わりに短い吐息をついた。増蔵はそんな伊三次に構わず話を続けた。 「八幡様の前によう、この頃、やけに男前の棒手振《ぼてふ》りの花屋が来るそうだ。そいつは人差し指の先がねェということだった」 「増さん、お節介なら、てェげェにして下せェ」  伊三次は癇を立てた。 「伊三、お前ェにあの二人を邪魔する権利はねェはずだぜ」 「だったら、増さんが世話を焼いて仲人でも何んでも買って出たらいいんですよ」  伊三次は自棄《やけ》のように怒鳴った。 「何が気に入らねェ。え? とくと聞かせてくんねェな」 「………」  そう言われて伊三次は言葉に窮した。増蔵には、たとい前が悪党でも改心したならそれでいいという心の広さがある。だが、伊三次はどうしてもそれを持ち合わせることができない。直次郎は物心ついた時から他人の懐を狙ってきたのだ。直次郎の身体に滲《し》みついたものが伊三次を拒む。 「おれ達の仕事はよう、科人《とがにん》を挙げるだけでいいのか」  増蔵は黙った伊三次に静かな声で訊いた。 「それが仕事だと心得ておりやす」 「他には何もねェってか」 「ありやせん」 「伊三!」  増蔵は呆れたように声を上げた。増蔵の言いたいことは、伊三次には十分わかっていた。これが直次郎のことでなければ、伊三次も、そんな斜《しや》に構えた物言いはしなかったはずだ。 「倅ができたんだから、もう少し鷹揚《おうよう》になったらどうなんだ。真面目ばかりじゃ、世の中、通らねェ」  増蔵は伊三次を諭すように続ける。 「直次郎が改心したと増さんは本気で信じているんですかい」 「おれは……できれば信じてやりてェ。きっとあいつは独りでいるぜ。そんな気がするな」 「女房持ちだったら?」 「それならそれで結構じゃねェか。だが、惚れた女のために指まで詰めた男だ。一年や二年で諦めがつくはずがねェ。伊三、男はよう、存外、思い切りの悪いもんだぜ」  増蔵はそう言うと煙管《きせる》に火を点けた。白い煙を吐き出しながら伊三次を見つめる眼に、なぜか哀れむようなものが感じられた。      三  いなみの助言は的を射ていた。松浦桂庵の母親、松浦美佐は松屋にいた。  伊三次が訪ねて行った時、ひと足違いで八丁堀に帰った後だった。美佐は深川不動で女中とはぐれてから一人で八丁堀に戻ろうとした。しかし、人込みに酔い、おまけに足を挫《くじ》いて歩けなくなった。  ちょうど通り掛かった棒手振りの男に助けられ、その男の住む裏店で手当を受けたという。  美佐はすぐにも入船町の松屋に連れて行って貰いたかったが、なぜか男は仕事が忙しいことを理由にそうしてはくれなかった。  世話になっている手前、我儘《わがまま》は言えないので、歩けるようになるまで、その家に厄介になっていた。男は美佐のために食事の用意をしてくれ、夜は酒までつけてくれたらしい。  いける口の美佐は大いに喜んだ。しかし、さすがに三日も経つと、家の者が心配しているだろうと、とりあえず、松屋に連れて行ってくれと男に縋《すが》ったらしい。男は美佐の足が本調子でないことを心配しながらも辻駕籠を頼んでくれた。美佐は男がついて来るものと思ったが、駕籠|舁《か》きに駄賃を弾み、松屋への道順をこと細かく伝えると、あっさりとその場で見送ったらしい。  松屋に着くと知らせを受けていたお梅は涙をこぼして美佐の無事を喜び、さっそく使いを八丁堀にやったらしい。  まずは一件落着というものだった。  その日、伊三次はお喜和の店には寄らなかった。何んとなく娘のお佐和の顔をじっと見ることができないような気がしたからである。  美佐が無事に家に戻ってしばらくすると、伊三次はまた不破に用事を言いつけられた。  無事に家に戻った美佐は、落ち着くと世話になった棒手振りに礼がしたいと言い出した。  美佐の言うことはもっともだったが、桂庵の妻女は喘息《ぜんそく》の持病が出ていたので外出はできない状態だった。それで、桂庵が下男を伴って美佐に教えられた男の塒《ねぐら》を訪ねたが、どうも年寄りの言うことは当てにならず、結局、塒には辿《たど》り着けずに戻ってしまったという。またその内に出直すつもりだと美佐に告げたが、美佐は承知せず、まだかまだかと急《せ》かすので、ほとほと手を焼いているらしい。  そんなことなら、下男か女中にでも任せたらいいのだが、美佐は深川不動で女中とはぐれてから、すっかり奉公人を信用しなくなっていた。桂庵も患者の往診があり、すぐにはいけないことを納得させようとすると、それでは不破殿の小者に頼んで下され、と言い出したという。 「年寄りはせっかちなもんだから、な、伊三、頼まれてくれ。駄賃はつけるそうだ」  いつもは横柄な態度の不破も、お上の御用とは関係のない野暮用を頼むので、声音は弱かった。伊三次も暇な訳ではなかったが、他ならぬ桂庵の母親のことだったので渋々、引き受けることにした。棒手振りの塒は深川の仙台堀に架かる海辺橋《うみべばし》の傍《そば》にある万年町の裏店らしい。通りを挟んで正覚寺、恵然寺、増林寺など、寺が固まって建っている所だった。  特にわかりにくい所でもないと思うが、同じような裏店の中から一人の男の塒を探り当てるとなると、素人には結構、難しいことなのかも知れなかった。 「それでな、八丁堀の方にも是非、顔を出してくれと、忘れずに伝えろということだった。お婆はよほど、その男が気に入ったらしい」  不破は伊三次が引き受けると、途端に機嫌のいい声になって続けた。 「そいで旦那、相手の男の名前ェは何んと言うんで?」 「うむ。花屋の時助《ときすけ》だそうだ」  花屋という言葉に伊三次の胸は|つん《ヽヽ》と疼《うず》いた。もしやという気がした。直次郎が花屋をしているからといって、桂庵の母親とすぐに繋《つな》がるものではないが、妙な気分は拭《ぬぐ》い切れなかった。  新川の酒問屋から取り寄せたらしい酒と、小粒が入っている祝儀袋を携えて伊三次は深川へ向かった。  脳裏には別れた時の直次郎の顔が浮かんでいた。  美佐は海辺橋の傍と言ったそうだが、男の住んでいる佐兵衛店《さへえだな》は海辺橋から一町ほど西に行った富岡橋の傍の平野町にあった。幾ら近所まで来ても見当違いの所を探していてはどうしようもない。  時助の塒はすぐにわかった。油障子の前に束ねた仏花が花桶の中に活《い》けられていたからだ。花の香とともに、花鋏《はなばさみ》を使う小気味のよい音もした。開け放した土間の中を覗くと笠を被り、着物の裾を尻端折《しりつぱしよ》りした男が手甲《てつこう》をした手で盛んに花の茎を揃えていた。  品物が存外に捌《さば》けたので、急いでもうひと稼ぎしようという感じだった。笠を外す暇もなかったらしい。 「ごめんよ」  伊三次が声を掛けると仄暗い土間にいた男の手が止まり、こちらを振り返った。笠に隠れて男の眼は見えない。薄い唇が半開きになっていた。 「花屋の時助さんですかい」  伊三次が訊くと、男は黙って肯いた。 「八丁堀の松浦桂庵先生のお婆様が大層お世話になったそうで。本日はお礼に参じやした」  そう言うと、男はやるせないような吐息をつき、ついで投げやりな感じで笠の紐を解いた。陽に灼《や》けているが、紛れもなく直次郎の顔が現れた。 「何んで兄さんが、あの婆ァの使いで来るのよ」  皮肉な物言いで口を返した。 「やっぱり、お前ェか。そうじゃねェかと内心で思っていたんだ」 「相変わらず勘がいいじゃない」  伊三次の眼は自然に直次郎の右手に注がれた。しかし、拳《こぶし》を軽く握り締めていたので、指のことはわからない。 「言っとくけど、|あちし《ヽヽヽ》が深川にいるのは商売のためで、他に深い意味はないんだからね」  直次郎は深川に住んでいる言い訳を必死でする。美佐をすぐに松屋に連れて行かなかったのは、途中でお佐和と顔を合わせることを恐れたためだと伊三次は合点がいった。 「わかっているよ。おれだってそのことで来た訳じゃねェ。ほれ、礼の酒と祝儀だ」  伊三次は上がり框《かまち》に一升徳利と祝儀袋を置いた。 「そんなつもりじゃなかったのに……おもしろい婆ァだったからドヤに連れて来ただけよ。留守番にもなったし」 「あのお人は不破の旦那の家に出入りしている医者の母親なんだ。近所の娘達に手習いを指南していて、なかなかできたお婆様だ」 「それは聞いたわよ。年寄りでも金を持っていると強いもんだと思ったものよ」 「お婆様は足が本調子じゃねェし、桂庵先生の奥様もちょいと身体の具合が悪い。それで、おれに礼の品を届けてくれと言われて来たんだ」  伊三次はそう言って、上がり框に気軽に腰を下ろした。 「下っ引きはやることがあって大変ね」 「なあに。それより、いつから花屋をしているんだ」 「今年の春から。あちし、持っていた銭が底をついて飢え死に寸前だったのよ。まともな店はあちしのような何もできない男なんか雇ってくれないし」  直次郎はやり掛けの花の束に手を伸ばし、それを藁紐《わらひも》で括《くく》りながら言った。可憐な花を扱う直次郎は妙に似つかわしいとも伊三次は思った。 「切羽詰まって、またぞろ片手技《かたてわざ》を使ったらさ、ドジ踏んで捕まったのよ」 「………」 「袋叩きに遭《あ》って道端に転がっていたらさ、運のいいことに本所の二つ目で花屋の元締《もとじめ》をしている男に拾われたのよ。あちし、手前ェのこと、洗いざらい喋って助けてくれって縋ったのよ。そしたら、わかったって。あちしにその気があるんなら、棒手振りの商売ができるようにしてやるってさ」 「よかったな。地獄に仏だな」  伊三次の言葉に直次郎はようやく笑顔を見せた。心なしか直次郎の表情に、たくましさが加わったようにも感じられる。 「花屋ってきれいな商売だって思っていたら、結構きつくてさ、それにこの間まで暑かったから、しおれるのも早いのよ。もう、時間との勝負よ」 「そうだな。だが、何んでも仕事となったらてェへんなもんだ」 「棒手振りにも縄張があってさ、ちゃんと筋を通さないと商売できないのよ。世の中だわさ」 「おれだって、丁場《ちようば》(得意先)を分けて貰った親方にゃ、毎月、決まったものを払ってるぜ」  伊三次は直次郎をいなすように言う。 「朝から晩まで稼いでも喰うのがやっとよ。おまけに天気の悪い日なんて、泣きたくなるほど売れない。それに比べりゃ、昔の商売は極楽だったわねえ」 「いずれ、あの商売を続けていたって先は見えていたさ。おいぼれになって|とっ《ヽヽ》捕まったら一巻の終わりよ。島送りか所払《ところばら》いを喰らって、もう娑婆《しやば》にゃあ戻れねェ。まあ、いい潮時だったじゃねェか」 「そう思う?」 「ああ。よかったって思っているぜ。ついでに早くかみさんを貰って身を固めることだな」  伊三次はお愛想のつもりでそう言った。直次郎の手が止まり、ふん、と鼻先で笑った。 「何がおかしい」 「つまんないことを言うと思ってさ」 「………」 「結局、兄さんにはあちしの気持ちはわかっていないのね。あの婆ァの一件でもない限り、兄さんはあちしのドヤには、やって来ないし、道で会っても知らん顔したくせに」 「そんなことはねェ。顔を見たら声ぐらい掛けるさ」 「あちし、今でも入船町には恐ろしくて足が向けられないのよ。その気持ち、わかる?」 「………」 「お佐和ちゃんがどんな眼であちしを見るかと考えただけで気が変になりそうよ。そのくせ、商売をしている時に、もしやお佐和ちゃんと出くわさないかと内心でどきどきしてる」 「直次郎、それは済んだことだ。いまさら女々しいことは言うな」 「お佐和ちゃん、あれからあちしのこと、何んか言ってた?」 「………」 「よう、何んと言っていたか教えてよ」 「それを聞いてどうしようというんだ」 「別に。ただ知りたいだけ」  伊三次はそれには応えず、ゆっくりと腰を上げ、「お婆様が八丁堀に顔を出せと言っていたぜ。暇ができたらそうしてやんな。喜ぶぜ」と言った。 「これ、あの婆ァに持って行って」  直次郎は束ねた花を伊三次に押しつけた。 「しっかり養生しろってね」  そう言い添えた。伊三次は黙って肯くと、外に出た。裏店の門口《かどぐち》を抜けると、頭上に晴れ上がった秋空が拡がっていた。自分が何かとんでもない意地悪をしたようで、伊三次は気が咎《とが》めていた。  直次郎は今でもお佐和を諦められずにいる。お佐和もそうだ。増蔵の言うように二人を一緒にするべきではないかと、ふと思う。  だが、その先、直次郎の前身のことで二人の間に問題が起きたとしたら、いや、子供でも生まれて、その子供が、|てて《ヽヽ》親が巾着切りだったと知ったら、直次郎はどう言い繕《つくろ》うのだろうか。それを思うとどうしても及び腰になる。みすみす不幸が予測されるような縁談を勧める訳にはいかない。伊三次は改めてそう思うのだった。      四 「おお、おお、ご足労でしたな。やはり伊三次さんだ。他の者では用が足りない」  松浦美佐は伊三次が直次郎に礼の品を渡して来たと告げると、上機嫌で自分の部屋に招《しよう》じ入れた。庭の一隅に美佐の隠居所があり、普段はそこで寝起きしている。手習いの弟子達は庭の垣根の木戸をくぐって隠居所に通って来る。六畳と四畳半の部屋には水屋もついていて、美佐はかいがいしく茶を淹《い》れて伊三次に勧めた。御納戸《おなんど》色の着物に対《つい》の袖無しを羽織り、引っ詰めの丸髷にした美佐は年のせいで髪の分量がずい分少ない。美佐は順当に年を取った女の、あるべき姿を伊三次に見せていた。若く見せるために小細工をしないところも清々しい。 「それで、どうじゃ、奴は相変わらず仕事に励んでおりましたか」  元は武家の出なので、美佐の物言いは格式張っているが、それは美佐の威厳ともなっていた。 「へい、真面目にやっておりやした」 「せっかく礼を届けたのに、商売物を土産に持たせては何もならぬものを」  そう言いながら、嬉しそうに仏壇の花入れに直次郎の花を飾った。 「あの男の花は活きがよい。客は正直なものでの、わしがあそこにおった間も花を求める客が切れなかったものよ。早晩、棒手振りから、店を構えることになるじゃろう」 「そう思って下さいやすか? こいつは恐縮でござんす」 「なになに、わしもこの年まで生きておれば、それなりに人を見る目も備わります。あれはみどころのある男だ。もちろん、伊三次さんもそうだがな」  美佐は取ってつけたように言って童女のような笑みを洩らした。 「それで、あの男はここに顔を出すと言うておりましたか」 「いえ、はっきりとは……仕事が忙しそうなので、暇ができるかどうか」 「さようか、それは、ちと残念なことだ」 「余計なことを申し上げますが、お婆様はあまりあの男とお近づきにならねェ方がいいと思いやす」  伊三次が恐る恐る言うと、美佐は怪訝な眼を向けた。 「そなたはあの男を前々から存じておられたのか」 「へい」 「何か訳ありの男ででもあるのか」 「へい……」 「話して下され」  美佐は有無を言わせぬ態度で伊三次に命じた。 「お婆様、わたしはあの男のことで、ちょいと頭を悩ましていることがございやす。お婆様からよいご意見が伺えるなら、これ以上のことはございやせんが」 「それは何か? あの男がお上に背《そむ》くようなことをしておるということかな」 「以前はそうでした」 「何をしておった」 「巾着切りでした」  そう言うと、美佐の口許から、ほうっと長い吐息がもれた。  美佐は伊三次の話を眼を瞑《つぶ》ってじっと聞き入った。間に相槌一つ挟まない。伊三次はこれまでの直次郎の来し方と、お佐和との経緯《いきさつ》、指を切った一件を詳しく話した。そうすることで、胸のつかえが不思議に下りるような気がした。 「そなたは神か仏か」  伊三次が話し終えると、美佐は禅問答のような言葉を吐いた。 「へ?」  伊三次は呑み込めない顔で美佐を見つめた。  皺《しわ》深い顔の中に、よく光る双《そう》の眼がある。美佐の眼は伊三次を試すというより、厳しく非難しているものがあった。 「他人《ひと》様の一生に髪結い風情が、あれこれと策を弄《ろう》するべきではない」 「お言葉ですが、わたしはお佐和ちゃんの将来を思うからこそあいつに手を引かせたんですぜ。もしもお婆様のお孫さんが、その立場だとしたら決して賛成はなさらないはずだ」 「ふん、いかにも。陸奥白河藩、ご祐筆役をいただくわが実家でそのようなことがあらば、即、お家は改易《かいえき》の憂き目を見る。だが、これは町人の間のこと。そのように堅苦しく考えずともよいではないか。人と生まれたからには、|たれ《ヽヽ》も倖せになりたいと願うのは道理」 「………」 「そなたは心配性の男らしい。案ずるより生むが易し、という諺《ことわざ》もある。そこまで若い二人が思い詰めているとあらば、ここはどうじゃ、骨を折って下さらんか」 「お断り致しやす。わたしは二人の将来に自信が持てやせん。うまく行けば、もちろん、問題はありやせんが、万が一、直次郎の前身のことで二人の間が駄目になったとしたら、わたしは一生、手前ェのしたことを悔やむと思いやす。そんなことなら、最初から二人の縁など取り持たなければいい。わたしはそう考えておりやす」  そう言うと、美佐は懐手をして、また眼を瞑った。 「お佐和という娘はあの男が巾着切りだったことを知らぬのですな」  美佐は眼を瞑ったまま静かな声で訊いた。 「へい」 「なぜ言わぬ」 「なぜって……」 「そなたはその娘にあの男のことを諦めて、他に婿を見つけてほしいのだろう」 「へい、できれば」 「ならば打ち明けよ。それで娘がどうするかは、そなたの関知することではない。そこからは娘とあの男の問題じゃ。そなたが責めを負うことでもあるまい」 「しかし、お佐和ちゃんはまだ世間知らずの小娘ですぜ。そんな分別があるとは思いやせん」 「十八だと言ったな、その娘」 「へい」 「もはや大人だ。立派に子も産める」 「………」 「そなたはそろそろ、二人のために隠し事をしていることが苦しくなっておる。ここで膿《うみ》を出せば、後が楽だぞ」  美佐はそう言って悪戯っぽい眼で笑った。  喰えないお婆だと伊三次は内心、独りごちた。      五  午後から急いで丁場を廻り、夕方に不破の組屋敷に立ち寄って、その日の報告をした。北町奉行所ではこのところ、緊迫した事件も持ち上がっておらず、不破の表情は呑気に見えた。隠密廻りをしている親友の緑川平八郎と提灯掛《ちようちんが》け横丁の料理茶屋で一杯やるつもりだから、お前もどうかと誘われたが、下戸の伊三次はこれから野暮用があると言って断った。直次郎のことで気持ちがくたくただった。その日は余計な気を遣いたくなかった。不破は「つき合いの悪い野郎だ」と、嫌味を言っていた。  佐内町の家に戻ると、お文と伊与太は湯屋へ行って来たようで、二人とも上気した顔をしていた。 「首が据わったから、おぶって湯屋に行って来たんだよ。伊与太、おとなしかったよ。この子は湯が好きらしい」  お文はそんなことを言って、台所に入った。 「これから|まま《ヽヽ》の仕度をするから、お前さんもひと風呂浴びてきたらどうだえ」 「あ、ああ。そうするか。飯を喰った後じゃ、大儀になるからな」  伊三次は素直に言って、台所の棚から湯桶を取り上げた。 「あのよう……」  濡れたお文の首筋に妙にそそられるものがあった。この前、お文に触れたのは三日前か、四日前か。伊三次は、つかの間、そんなことを思ったが、お文にそんなことは言えない。  この助平亭主、何考えているんだ。ちったァ、わっちの身になっとくれ、と怒鳴られるのが落ちだ。もちろん、口にしようとしたことは直次郎とお佐和のことだった。 「何んだえ」  こちらを向いたお文の眼の周りが酒でも飲んだように赤らんでいる。湯屋で伊与太を洗うのに往生したのだろう。額にも汗が光っていた。 「いや、いい……」  伊三次は思い直した。 「何んだよ、言い掛けてやめるのは気になるじゃないか」 「うん……」  自然に俯きがちになった。 「何か気掛かりでもあるのかえ」 「直次郎、知っているよな」 「浅草の巾着切りのことかえ」  ほら、お文だって、すぐにそう言うじゃないかと思った。一度掲げた看板を下ろすのは容易じゃない。 「奴は足を洗ったんだ」 「へえ、そうかえ。そりゃ結構なことじゃないか。あの男をお縄にする手間が省けたというものだ。どういう風の吹き回しでそんなことになったんだえ」 「堅気の娘に惚れたからよ」  そう言うと、お文は呆気《あつけ》に取られたような顔になり、ついで弾けるような笑い声を立てた。 「笑い事じゃねェ。おれは真面目な話をしているんだ」  伊三次は、むっとしてお文を睨んだ。 「ああ、堪忍しておくれ。今時、そんなおとぎ話があったのかと思うと愉快になったのさ」 「全く、あいつに一番似合わねェ話だが」 「あいつも男の端くれだったってことだろう」 「問題は相手が、昔、おれが世話になった人の娘だということよ。おれはどうしてもその娘に直次郎を勧めることができなくて手を引かせたが、この度、松浦先生のお婆様の世話をしたのが、その直次郎だったんだ。お婆様はおれが余計なことをするとおかんむりだった」 「あのお婆様は直次郎のことを知らないからさ」 「おうよ。だからおれは洗いざらい言ってやった。するとな、娘に直次郎の素性を打ち明けろとほざいた。それからどうするかは二人に任せろってよ」 「………」 「お前ェ、どう思う」 「お婆様の言う通りだと思うよ」  お文はあっさりと応えた。 「お前さんが、その娘さんに直次郎の素性を明かさなかったのがわからない。わっちならずばりと言っていただろう。それはお前さんが娘に同情してそうしたのかえ」 「ああ」 「罪なことをする。娘は訳がわからず未練に苦しむことになったんじゃないのかえ」  お文の言う通りだった。あれからお佐和は誰にも言えない気持ちを後生大事に胸に抱えていたのだ。 「いまさら打ち明けるのは、どうも気が進まねェ」  伊三次は低い声で言った。 「それでも本当のことを言ってやるのが親切というものだ」  伊三次は長い吐息をついた。また気の重い仕事をしなければならない。 「直次郎をしょっ引《ぴ》いて、お白州《しらす》に送り込むよりましだろう」  お文は突飛なたとえを持ち出した。 「確かにな」  伊三次は弱々しく応えた。 「湯に行っといで」  お文は威勢よく言った。  いつもは長く感じる永代橋が、その日に限って、やけに短く感じられた。それでいて、右手の台箱は重い。まるで伊三次の気持ちが台箱にのし掛かっているようだった。翌日、伊三次は不破の組屋敷に寄ってから深川へ向かった。  佐賀町の干鰯《ほしか》問屋の主《あるじ》と番頭の頭をやっつけた後で、木場の材木問屋「信濃屋」の主の頭を拵《こしら》えた。信濃屋で昼飯を馳走になって外に出ると、伊三次の深川での仕事は仕舞いだった。ぐずぐず歩いても入船町は伊三次の気持ちとは裏腹に目の前に近づいた。  お佐和は店の前で打ち水をしていた。この二、三日、天気のよい日が続いていたので、地面も乾き、材木を積んだ大八車でも通ると埃が舞い上がった。  お佐和は黒八《くろはち》を掛けた花色の単衣の袖を襷《たすき》で括り、友禅の前垂れもかいがいしく手桶から柄杓《ひしやく》で水を振り撒いていた。大柄なお佐和の姿は一町先からでも目立った。  まるで日だまりのような笑顔を見せる娘だった。そんな娘を、あの直次郎と一緒にさせることなど伊三次にはどうしてもできないと、そこに来てさえも思った。  顔を上げたお佐和が伊三次に気づき「あら」という口の形をした。  伊三次は気軽に左手を挙げた。お佐和は手桶を置いて小走りに近づいた。 「伊三次さん、ずい分、ご無沙汰ね。赤ちゃんが生まれたのでしょう?」 「ええ、まあ」  伊三次は照れ笑いした。 「おっ母さん、お祝いを用意しているのに、ちっとも顔を見せないから、いらいらしていたのよ」 「そいつはどうも」 「ねえ、少し寄って。それとも、これからお仕事があるの?」 「いや、深川の仕事はもう仕舞いだから、そいじゃ、ちょいとお邪魔させていただきやす」  お佐和の眼が輝き、台箱を奪い取るようにして店の中へ運んだ。 「おっ母さん、おっ母さん」と内所に呼び掛ける声も張り切っていた。  お喜和は伊三次の姿を見ると、年の割に艶っぽい笑顔を見せた。  内所に上がり茶が振る舞われた後で、お喜和は祝儀袋を伊三次の前に差し出した。その祝儀袋は、この間、直次郎に届けたものと同じ意匠だと、伊三次はつまらないことに気づいた。 「お気を遣わせてあいすみやせん」  伊三次はこくりと頭を下げて礼を言った。 「なあに、ほんの気持ちさ。坊に|べべ《ヽヽ》でも拵えておやり」 「へい」 「お佐和、甘い物があったかえ」 「今、松屋さんで買ってきます」 「お佐和ちゃん、構わねェで下せェ」  伊三次は慌てて制した。だが、お佐和はもう、下駄を突っ掛けて外に出て行ってしまった。 「今まで塞《ふさ》いでいたのに、伊三さんの顔を見たら、やけに張り切っていること。女房、子供のある男にお愛想しても始まらないのにさ」  お喜和は冗談混じりに言う。 「いや、お佐和ちゃんが気にしているのはおれじゃねェでしょう」  伊三次がそう言うと、お喜和は笑顔を消した。 「お察しの通りさ。この一年、お佐和は半病人さ。恋|患《わずら》いというやつでね。少し痩せただろう?」  考えてみたら、お佐和の顔を見るのも久しぶりだった。今年の正月に立ち寄った時、お佐和は外出していたので会っていない。 「お佐和ちゃんは直次郎を諦め切れねェんですね」 「ああ。理由があって姿を消したのなら納得もするが、何しろ、風のように消えちまったからねえ。お佐和がおかしくなるのも無理ないよ」 「………」 「伊三さん、あの子は今、どこにいるのだえ」 「深川におりやす。平野町で棒手振りの花屋をしておりやす」 「深川……それじゃ、どうしてここに顔を見せないのだえ。好いた娘でもできたのかえ」 「あいつはお佐和ちゃんに、ぞっこん惚れておりやす。惚れているから姿を出せねェんです」  お喜和はごくりと固唾《かたず》を飲むと、「訳を聞かせておくれ」と、掠《かす》れた声で言った。  お喜和の家にも虫売りから買ったらしい虫籠が棚の上にのせられていた。時々、餌を食《は》むかさこそとした音がした。鈴虫だろうか。  虫籠の格子の陰になって虫の正体はわからない。夜半に虫の音に耳を澄ます親子の姿を伊三次はふと思った。倖せだけど、どこか寂しさがつきまとう。  お喜和は伊三次の話を聞きながら団扇で胸に風を送っていた。のぼせるような話ではない。むしろ胸がひやりとするはずだ。お喜和は間が持てなくて盛んに手を動かしているのだった。 「可哀想に……」  お喜和は団扇を傍《かたわ》らに置くと、溜め息の混じった声でそう言った。 「医者の家のお婆様も、うちの嬶ァも、決めるのはお佐和ちゃんだと言うもんですから、今日はこうしてのこのこやって来た次第で」 「伊三さんの気持ちはようくわかっているよ。それもこれもお佐和のためだ。ありがたいよ」  お喜和は|しゅん《ヽヽヽ》と洟《はな》を啜って頭を下げた。  その時、店の方からどさりと物の落ちる音が聞こえた。伊三次が振り返ると、間仕切《まじき》りの暖簾の下から、お佐和がしゃがんでいるのが見えた。お佐和は買って来た菓子の包みを取り落としたのだ。豆大福が土間に転がっていた。  お佐和は慌ててそれを拾っている。 「せっかく買って来たのにあたしったら……」  自分の不始末を悔やむ声も聞こえた。伊三次は土間に下りて豆大福を拾うのを手伝った。 「大丈夫だよ、お佐和ちゃん。大したことはねェ」  伊三次は豆大福の表面についた土を手早く払ってお佐和に渡した。だが、それを受け取ったお佐和の眼に膨《ふく》れ上がるような涙が浮かんでいた。 「お佐和、伊三さんの話を聞いていたんだね」  お喜和は首をねじ曲げて訊いた。お佐和は菓子の包みを胸に抱えたまま、こくりと肯いた。 「伊三さんはお前のためを思って何も言わなかったんだよ」 「わかっています。でも、直次郎さんは指を切って、それで、悪い仲間から抜けようとしたんでしょう? それは、あたしのためなの? そうなの?」  伊三次はお佐和の眼を避けた。お佐和の涙が切なくて見ていられなかった。 「ああそうさ。お前のために、あの子は思い切ったことをしたんだ」  お喜和が伊三次の代わりに答えた。 「足を洗ったのなら、どうしてここへ来てくれなかったの」 「そいつァ……」  伊三次は言葉に窮した。直次郎についた嘘がお佐和を苦しめることになろうとは思いもしないことだった。 「あの子はお前に自分の正体を知られて、それで合わす顔がないと考えたのさ。男の意地じゃないか。わかっておやり」  お喜和は伊三次を庇うように言った。 「あたし、何も知らなかったのに」 「おれが巾着切りだったことを、お佐和ちゃんに|ばら《ヽヽ》したと言ったからよ」  伊三次がそう言うと、お佐和は唇を歪《ゆが》めた。 「ひどい、伊三次さん、ひどい!」 「………」 「どうしてそんな嘘を」 「お佐和、伊三さんはお前のためを思ってしたことだ。詰《なじ》ることはない」 「だって、だって……」  お佐和は込み上げるものを必死で堪えて言う。 「そいじゃ、何かい? そんな直さんでもお前は構わないと言うのかえ。お前の亭主にしてもいいと言うのかえ」  お喜和は膝頭をこちらに向け、立て続けに訊いた。お佐和はそれが答えだと言わんばかりに、わっと泣き伏した。 「……そうかい、そういうことかい。お佐和、この先、何があっても、その涙を忘れるんじゃないよ。誰が勧めた訳でもない、お前が自分で決めたことだ。いいね?」  お喜和はその時だけ厳しい声で言った。それから伊三次の方を向き「伊三さん、そういうことだからさ、面倒だが、もうひと仕事頼まれておくれでないか」と、言った。お喜和の顔には、もう笑みが浮かんでいた。 「本当にいいんですかい」  伊三次はお喜和に確かめずにはいられなかった。 「いいも悪いもないじゃないか。あたしの男じゃないもの、お佐和が選んだ男だもの」 「………」  お佐和はしゃがんで泣き続けている。 「わかりやした」  伊三次は観念して低い声で応えた。 「そいじゃ、善は急げということもあるから、これからさっそくあの子を呼んで来ておくれ。仕出し屋から何か取って、軽くお祝いをしようじゃないか」 「え、これからですかい」  伊三次は驚いてお喜和を見た。 「嫌やかえ」 「嫌やじゃありやせんが、どうもお内儀さんの話は急で……」 「今まで二人はさんざん待ったじゃないか。これ以上待たせるのは酷だよ」 「………」 「お佐和、いつまでもめそめそしてるんじゃないよ。さっさと家の中を片づけて、それから湯屋に行ってせいぜい身体を磨いておいで。ぐずぐずしていると日が暮れる」  お喜和は威勢よく言った。      六  昼過ぎまで晴れていた空が俄《にわ》かに曇り、三十三間堂傍の永居橋《えいきよばし》を渡った辺りから、ぽつぽつと降ってきた。伊三次は十五間川《じゆうごけんがわ》沿いを小走りに進んで平野町に入った。  直次郎の塒の前に薦《こも》で包まれた|すすき《ヽヽヽ》が置かれていた。それを見て、伊三次はそろそろ月見が近いと思った。  土間に足を踏み入れた時、背中で雷の音がして、またたく間に激しい雨になった。  直次郎は狭い座敷で煙管を遣っていた。肩先を濡らして入ってきた伊三次を見て、首に掛けていた手拭いをひょいと放った。伊三次はそれを、うまい具合に受け取った。 「この雨で、お前ェも早仕舞いか」  伊三次は雨の雫《しずく》を拭った後で、台箱もひと拭きして訊いた。 「すすきが入ったと知らせが来たから、本所まで取りに行ってたのよ。これから、花をあしらって月見の品物に拵えようと思ったけど、何んだかくたびれてさ。雨も降って来たから、今日は、もういいやって感じよ」  直次郎は本当に疲れた様子で言う。 「外に商売物を出しっ放しにしていいのかい」  伊三次は雨に濡れているすすきが気になった。 「いいのよ。雨が上がればすぐに乾くから。ちょいと兄さん、せっかく来たんだから晩飯でもどう? あちしが奢《おご》るわよ」  直次郎は伊三次が雨宿りのつもりで立ち寄ったと思っているらしい。 「何んと珍しいことを言うから、見ねェ、雨だぜ」  伊三次はからかった。 「憎らしい」  直次郎は、きゅっと伊三次を睨んだ。伊三次が上がり框に腰掛けると「遠慮しないで上がりなさいよ」と勧める。  直次郎は、火鉢の火種を確かめると茶の用意を始めた。伊三次は、なるべく直次郎を脅《おど》かさず、さり気なく話をするつもりだった。 「今日はよ、お前ェに婿入りの話を持って来てやったぜ」 「へへえ、どういう風の吹き回しだろ。見なさいよ、雨まで降って来た」  直次郎は最前の伊三次の言葉に応酬した。 「まあ、お前ェも真面目になったことだし、ここらで身を固めるのも悪くねェと思ってよ」 「ありがたいけど、あちし、まだ、そんな気になれないから」 「………」 「あい、お茶」  直次郎は色の薄い渋茶を欠けた湯呑に淹《い》れて差し出した。伊三次に笑いが込み上げた。 「断るのかい」 「うん、悪いけど」 「そいつは惜しいことをする。相手は十八でお前ェにゃ、ちょうど似合いの年頃だ。とびきりの上玉で、小間物屋の跡取り娘ときてる。母親と一緒に住むことになるが、この母親が存外にできたお人で、娘を大事にしてくれる男なら、前が巾着切りだろうが、何んだろうが構やしねェとよ」  伊三次は冗談めかして、ひと息に言った。 「兄さん……」  直次郎は驚きで眼をみはった。 「娘は手前ェのために指を詰めた男がいると聞いて、後生だ、かかさん、どうぞ添わせておくれと泣きの涙。こちとら、昼間っから、とんだ素人浄瑠璃の節を聞かされてげんなりしたものよ。その娘も、手前ェが選んだことだから、後悔はしねェそうだ」 「誰だろうね、そんな奇特な娘は」  直次郎は低い声で呟く。だが、眼は落ち着きなく、盛んにあちこち動く。 「入船町の小間物屋を、お前ェ、知らなかったかな」 「………」 「そうけェ、知らなかったのかい。お佐和という娘だ。ちょいとお前ェにゃ、もったいねェような娘だ。さあ、どうする。お前ェ、断るのかい」  伊三次は悪戯っぽい眼で詰め寄る。  直次郎は空咳《からせき》を何度もした。それから、いきなり立ち上がると流しに行き、その下に置いてあった一升徳利に口をつけて、ごくごくと飲んだ。手の甲で口許を拭った時、短い人差し指が目についた。 「あんまり飲むな。これから入船町に行けなくなるぜ」  伊三次は直次郎をさり気なくいなした。 「兄さん、あちし、怖い……」  こちらを向いた直次郎の顔が緊張で青ざめていた。 「小娘みてェなことはほざくな」 「兄さん、まさか、あちしをからかっているんじゃないだろうね」 「馬鹿言ってんじゃねェ。ささ、早く仕度しな。お佐和ちゃんはな、湯屋に行ってよう、ぴかぴかに身体を磨いてよ、お前ェが来るのを待っているんだぜ。ほ、この果報者」 「あちし、朝湯に行ったけど、も一度行ってくる」 「帰《け》ェるぞ、このう。湯屋は一日一回行けばいいってことよ」 「ね、本当にこれでいいの? 本当にあちし、お佐和ちゃんと一緒になれるの?」 「ああ、本当だぜ」  伊三次は噛んで含めるように応えた。直次郎の純な顔がいじらしい。さんざん、巾着切りで悪の限りを尽くした男が、一人の娘に会ったために、己れのすべてを変える気になったのだ。その気持ちを汲んでやるのも無駄ではないかも知れない。伊三次は直次郎を見て、ようやくそんな気持ちになった。こいつは深川不動の釈迦如来の御利益かも知れない。  ふと、そんな気がした。  直次郎の塒に傘は一本しかなかった。  直次郎はそれを気前よく伊三次に貸すと、自分は蓑《みの》と笠を着けた。腕には抱え切れないほどの桔梗《ききよう》、撫子《なでしこ》、竜胆《りんどう》、藤袴《ふじばかま》、女郎花《おみなえし》など、秋の草花を携えている。明日の商売をどうするのかと訊けば、|こっぱやく《ヽヽヽヽヽ》起きて、また仕入れに行くと、豪気に応えた。  どうぞ女房になってくれと、直次郎は、その花をお佐和に捧げて言うつもりなのか。お文が言ったように、こいつは確かに、今時珍しいおとぎ話でもあった。  だが、入船町まで、直次郎は一言も口を利かなかった。口許から洩れるのは切ない溜め息ばかりだった。伊三次はその度に苦笑して鼻を鳴らした。  暖簾は早々に引っ込められていた。その代わり、軒《のき》行灯《あんどん》に灯りがともっていた。雨に煙る入船町に、その仄かな灯りがちらちらと揺れている。 「そいじゃ、おれはここで」  伊三次は半町ほど手前で直次郎に言った。  途端に直次郎は心細い顔になり「後生だ、兄さん、一緒に行って」と、縋った。 「おきゃあがれ。そこまでする義理はねェわ。手前ェのけつは手前ェで拭きな」 「冷たいのね」 「何が冷たい。おいらは婿に参りやした。どうぞよろしくお頼み申しやす、と言えばいいだけの話だ」 「本当にそれでいいの」 「ああ。ほらよ」  伊三次は直次郎の背中を|くいっ《ヽヽヽ》と押して、踵《きびす》を返した。直次郎はしばらくその場に佇《たたず》んで、伊三次を見送っていた。  伊三次は曲がり角で振り向いた。振り向かずにはいられなかった。直次郎がおずおずと戸に近づき、中へ声を掛けた様子である。  ほどなく、戸が開き、お佐和の白い顔が覗いた。お佐和は泣き笑いのような表情をしている。  かぶりを振った。もう一度、かぶりを振った。それからこくりと肯いた。  花を差し出す直次郎。お佐和が嬉しそうにそれを受け取ると、じっと直次郎を見つめた。  それから堪え切れずに直次郎に縋りついた。  直次郎はお佐和の勢いに少しよろけ、足を踏んばった。 (あちゃあ、やってくれる。まだ人目があるのによう)  雨が降る。まっすぐな雨が降る。だが、この雨は暖かい雨だ。すべてを洗い流し、代わりに何かを潤す恵みの雨だ。そう、伊三次は思う。  抱き合う二人の姿は、まるで紗《しや》を掛けた一幅の絵だった。  せめてこの二人に下世話な言葉を掛ける邪魔者が現れないように、伊三次はそっと見守っていたのだった。  佐内町に戻ると、すでに雨戸が閉じられていた。  伊三次は雨戸の潜《くぐ》り戸から中に入った。  茶の間の灯りが障子に映っている。伊与太のむずかる声が聞こえた。 「今、帰ェったぜ」  そっと声を掛けると、お文が伊与太の横で眠り込んでいた。伊与太を寝かしつけようとして、自分が先に眠ってしまったらしい。 「いやあ、おっ母さんは寝てしまったぜ。お前ェは放って置かれたって訳か。どれどれ、可哀想にな。寂しかっただろ。もう大丈夫だ。もう、|ちゃん《ヽヽヽ》が帰ェって来たんだから心配いらねェ……おっと、けつが濡れてるぜ。悪いおっ母さんだな、伊与太のおむつが濡れているのに、くうくう眠っていらァ。ちゃんが取り替えてやるぜ。なあに、そのぐらい、できらァ。心配すんな。ほれ、おう、ぐっちょり、ぐっちょり」  伊三次は濡れたむつきを脇に寄せると、畳んで積み上げてある新しいむつきを取り上げて伊与太の尻にあてがった。 「どうでェ、さっぱりしただろう」  そう言うと、不意に伊与太が笑った。伊三次を見て、それは嬉しそうに笑う。まるでその時、初めて伊三次が父親であることを確認したような感じがした。 「おィ、ありがてェなあ。今日は何んていい日なんだ。いいものばかり見せて貰ったぜ」  腕の中で抱いてあやすと、伊与太はさらに笑った。お文は何も気づかず、眠っているばかり。  雨はひと晩中、降り続いていた。 [#改ページ]  文庫のためのあとがき [#地付き]宇江佐真理  十年も髪結い伊三次のシリーズを書いていると、何か新しいテイストを取り入れたいと思うようになった。たとえば、ロックとか、本来は時代小説に不要と思われていたものの中にヒントがあるのではないかと、ぼんやり考えていた。  そんな折、たまたまロック歌手の矢沢永吉さんが「黒く塗りつぶせ」というタイトルの歌をうたっているのがテレビから飛び込んできた。矢沢さんのライブのひとこまであったのだろう。矢沢さんは私と同い年である。スタイルに気を配り、贅肉《ぜいにく》はほとんどない。その努力に頭が下がる。でも私は、それなりに年を取っているジュリーこと沢田研二さんも好きだけど。  それはともかく。その時の矢沢さんの「黒く塗りつぶせ」というタイトルは胸にコツンと響いた。これだね。これを使おうと思った。 「黒く塗りつぶせ」は矢沢さんのオリジナルであるが、ザ・ローリング・ストーンズにも同名のものがあった。「ペイント・イット・ブラック」がそれである。  和訳すると「黒く塗れ」になるか。塗りつぶせよりすっきりとした感じで、こちらの方が、小説のタイトルとしてはふさわしいように思った。  単行本にまとめる時、これを表題にすることにもためらいはなかったと思う。小説の「黒く塗れ」は実際に外国で起きた事件をヒントにしている。小説では「呪《まじない》」としているが、本当は催眠術だった。  髪結い伊三次のシリーズは一応、捕物帳ということになっているが、私自身には捕物帳を書いているという意識はない。正直に言えば、犯人探しやトリックは苦手である。サブタイトルの「髪結い伊三次捕物余話」に注目していただきたい。あくまでも余話なのだ。つまり、私は捕物を書いているのではありませんよ、とメッセージを送っているつもりなのである。  それからもうひとつ苦手なことがある。それは時代小説に、まま感じられる時代臭というものだ。特に捕物帳にそれが色濃く感じられるような気がしてならない。私はそれを払拭しようとして、日々、努めてきたつもりである。ロックのタイトルを引用したり、外国の事件に目を向けたりするのも、実はそれゆえである。  いいじゃないか、時代小説は昔のことを書くのだから、時代臭があって当然と思うかも知れない。それどころか、時代小説にバタ臭いものはいらないと考える御仁《ごじん》も多い。  読者のお手紙の中にこういうものがあった。  函館は西洋文化を比較的早く取り入れた土地柄なので、あなたもそれに多少、影響を受けている。浅草の下町あたりに住んで、じっくり下町情緒を学んではどうか、と。  大きなお世話と思ったが、読者の感じ方は様々である。あるいは、私のやり方に不満を覚えている読者もいるのだと認識した。  だが、私は自分のやり方を変えないだろう。  私は、こと小説に関しては人の意見をあまり聞かない。時代小説を書いているからといって型にはまりたくないと思っている。勝手に書いているから、駄作になっても編集者のせいにはできない。すべて私の責任なのだ。  藤沢周平さんは時代小説の大先輩である。  その作品は今でも学ぶべきことが多い。  その中で「彫師伊之助捕物覚え」(新潮文庫刊)というシリーズがある。文庫の帯には「大江戸ハードボイルド第3弾!」などと派手な惹句が躍っていた。これは出版社の意図だろうと考えていたら、どうやらそうではなかった。藤沢さんは外国の推理小説がお好きだったので、何とかハードボイルドのテイストを盛り込みたいと考えていらしたらしいのだ。  その試みが成功したかどうかは別において、あの藤沢さんでさえ、そうしたことを考えていたのかと思うと、勇気百倍である。これからも迷わず、私もあれこれやってみるつもりである。しかし、「黒く塗れ」のシリーズは闇の濃い作品が続いた。何とか最後には読者の気持ちを和らげたいと焦《あせ》ってもいた。私は別の読者の手紙をふと思い出した。若い女性の読者である。 「直次郎を幸せにして下さい」と文面から悲鳴が聞こえるようだった。  直次郎──浅草の掏摸《すり》をしていた男である。初めて心を魅《ひ》かれた娘のために商売道具の指を詰《つ》める。だが、直次郎の思いは届かず、意気消沈して伊三次の前から消えた。  私は直次郎を再び登場させるつもりはなかった。伊三次の前を通り過ぎた男の一人として扱ったからだ。  直次郎を幸せに……そうか、読者がそれを望むのなら、頑《かたく》なに拒む理由はないと私は思った。幸せに、幸せに。心で呟きながら「慈雨」を書いた。それが今シリーズの救いとなっていれば、私も幸せである。  平成十八年、六月。函館の自宅にて。  単行本 二〇〇三年九月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十八年九月十日刊